気持ちと向き合う

自分の心のなかにあるいろんな「気持ち」と、気持ちを束ねて導く「自分」とのあいだに線が引けるようになると、心の主人公である自分が、気持ちと向き合い、もてなすことができるようになります。

「娘に幼い頃の自分を重ね」
「母の気持ちを重ねていると」
「天使と悪魔」
「う・ん・ち」
「自分をヨシヨシしてみたら」
「“怖い”気持ちから“繋がっていたい”」
「泣いちゃった」
「空洞ちゃん~寂しい気持ちから」
「いじけ虫と合体?したら」
「明るい未来に向かって」
「暗い穴の中から」
「毎月のように通った」

「娘に幼い頃の自分を重ね」

〈第1信〉
 こんにちは。以前、抱っこ法についての相談させていただいたところ、お忙しい中ご返信いただき、本当にありがとうございました。絶叫して抱っこをいやがる娘の姿に、自分のやり方に自信が持てなかったところ、大丈夫だよと背中を押していただけたような気がしました。

 その後、娘は少し落ち着いた様子を見せていて、主人がいても私にもずいぶんと甘えてくるようになりました。ですが、私自身がなんだか娘と向かい合うことができず、甘えてこられてもあまりかわいく思えなくて、娘に十分に応えてあげられない苦しさが続いていました。

 しばらく抱っこ法にチャレンジする機会はなかったのですが、昨日、なんとなく抱っこしていた娘が抱っこを嫌がり始めたので、抱っこ法を試してみました。泣いて降りようとする娘を抱きしめて、「甘えたいのに我慢させてたね」「ママのためにいっぱい我慢してくれてありがとう」などと話しているうちに、娘に対する申し訳なさとともに、心の底から娘を愛おしいと思う感情があふれ出してきました。それは今までの抱っこには無かった、初めての感覚でした。暴れていた娘もすっかりおとなしくなり、じっと話を聞いていました。

 私自身、甘えられず泣けない子ども時代を過ごしていましたので、我慢している娘がなんだか幼い頃の自分を見ているような気分でした。娘はすっかり落ち着いてしまったので、今度は下の子が号泣しているのが気にかかり、今度はいつ抱っこをやめていいのか悩んでしまいましたが・・・。とにかくたくさん「大好きだよ」と言い、娘に笑顔が出たところでおしまいにしました。

 それ以来、変わったのは娘ではなく私でした。娘がかわいくてかわいくて仕方なくなったのです。今まで些細なことでイライラしていたのも、なんだかおおらかに受け止められるようになりました。すると娘の方もかわいく甘えてくるようになり、「ママ大好き」と言ってくれたり、とても聞き分けがよくなって、ますますかわいさが増す一方です。

 今回の癒しの抱っこで癒されたのは私自身でした。娘に幼い頃の自分を重ね、「そのままで大好きだよ」「泣いていいんだよ」と自分に言い聞かせていたのだと思います。厳しい両親の元で育った私は、常に自分に自信が持てず、人から愛されたいと思うばかりに他人の目が気になって仕方なく、何でも判断基準は「他人がどう思うか」で、のびのびと自分を出すことができない人間でした。

 たった一度の癒しの抱っこで完全に変わったとは思いませんが、これから変わっていけるきっかけになったのではないかと思っています。今後また辛くなったら、ご紹介いただいた援助者の方に連絡をとってみようと考えています。

 下の子が生まれて、主人が仕事で忙しくなり始めてから、心が押し潰されるような日々に、「助けて!」と言いたくても言えない、言える人がいない、苦しくて息がつまりそうな状態がずっと続いていました。でも、今度は「助けて!」と言える人がいるんだなと思うとそれだけで大きな安心感につながります。実際に助けを求めなくても、ただそこにいてくれると思うだけで安心できるってすごいことですね。見守られているような、そんな気持ちになります。そんな気持ちを授けてくださって、本当にありがとうございます。私も誰かにとってそんな存在になれたらいいなと、でも何かしてあげようと肩に力を入れ過ぎなくてもいいんだなと、このメールを書いている最中もなんだかいろいろと考えが深まりました。自分の中でもうまくまとめきれず、全部お伝えしきれないのが残念です。

 メールを読んでくださり、ありがとうございました。少しでもこの感謝の気持ちが伝わりましたら幸いです。抱っこ法がもっともっと世の中へ広がりますように。


〈第2信〉
 その後、娘とは、かわいくてたまらない付き合い始めたばかりの恋人同士のような、熱い関係からだいぶ落ち着きました。私が疲れていたり体調が悪かったりする時には、やはり存分に甘えを受け止めてあげることができません。イライラしてしまうこともあり、それで自己嫌悪に陥ったりもします。

 以前と同じことを繰り返しているようですが、娘も私もなんとなく違っているような気がしています。どこがどう違うとはっきりは言えないのですが。

 最近では、娘は私に「気付き」を与えるために、下の子は私を「救う」ために、私の元へやってきてくれたのではないかと思っています。

 昔から自分に自信がなく対人関係がうまくいかないのは、自分の親との問題を抱えているためだと気付けたのは、私自身が親になり我が子と向き合うことになったためです。娘がいなければ、私は自分の問題に気付かないまま、今も原因のわからない人間関係の苦しさに悩まされていたでしょう。

 また、私が少しイライラしていたり疲れていたりすると、必ず「ママ元気?」と聞いてきてくれたり、「怒っちゃダメよ」と諭してくれたりもし、その都度ハッとさせられます。すごいです。

 下の子はその存在だけで私を救ってくれるというか、私がイライラしている時でさえも全身で私を受け入れてくれているような、いつもストレートに120%の愛情を注いでくれているような子で、私が私のままでいいんだと安心させてくれる存在です。

 二人ともかけがえのない子どもたちで、私の元に来てくれて心から感謝しています。

「母の気持ちを重ねていると」

 あけましておめでとうございます。
 昨年は大変お世話になり、ありがとうございました。

 先月のセッションで、生まれてきて今までに感じたことのない感覚を体験しました。私が、よく「死にたい」や「消えてしまいたい」と思うことがあるので、阿部先生に私が母のお腹の中にいるときの母の気持ちを訊かれて、母の立場になって考えていると、母が幼いときに母(祖母)を亡くしていることや、私が生まれる前に流産を二回、死産を二回経験していることを思い出しました。すると、目には見えないけれど、亡くなった兄や姉がそばにいて見守ってくれているような感じがしました。

 「兄や姉たちがいたから、今の私がいる。私はひとりじゃない。兄姉の分も生きるんだ」と思うと、涙があふれてきました。

 私自身も二人目を流産しています。そのときは、とても悲しくて、何日も泣いていました。そのときの気持ちと、母が流産死産をしたときの気持ちを重ねていると、そのあとに、生まれたばかりの私が母の腕の中で眠っている姿が、頭の中に出てきました。私を産んだとき、母はとってもうれしくて、幸せだっただろうなあと、思いました。すると、また涙があふれてきて、いつまでも涙がでてきて止まらなくなりそうでした。

 うまく言葉にできないのですが、あとで考えてみると、あれは私が私を抱っこしていたような?外見は母でしたが、心は私で、自分で自分の赤ちゃん姿を抱っこしていたような?? とんちんかんなことを言ってるかもしれませんが、不思議な感じでした。

 年末から一週間ほど、実家に帰省していました。そのときに母とたくさん話をしました。流産死産を繰り返し、父は亡くなった兄や姉を、お墓に埋葬し、私がお腹にいるとわかったときには、「もう我が子を埋葬するという、辛い思いはしたくないから、おろしてくれ」と母に言ったそうです。でも、母はおろす気は全くなかったと言っていました。

 私が登校拒否をし始めたとき、母が悩んで父に相談すると、父は「一家心中でもすればいい」と言ったそうです。この話は私が社会人ぐらいになってから、何度か聞いています。

 今回帰省して思ったのが、昔から父親に似ていると言われることは多かったのですが、自分でも本当に父親に似てるなあと思いました。そして、「母は強いなー」と、思いました。父に似ているということは、認めたというよりも、諦めたという感じです。父のことが嫌いなわけではないのですが、母と二人で、父の話をしていると、「私もそういうところあるわー」と言うことがたくさんありました。私が子どもの頃の父は、平日は仕事、休みは朝からパチンコに出かけていて、話をしたり、一緒に遊んでもらった記憶はほとんど無いんですが、なんで似ちゃうんでしょうかね・・。

 新学期が始まりました。幼稚園が苦手なのは子どもよりも、私のほうだなって思いました。まだまだ、自分を責めたり、嫌になったりすることもありますが、つい、いつものように「もーいやだ!自分なんか大嫌い!居なくなりたい」と思ったときに、セッションでの、兄や姉がそばにいたような感覚を思い出すと、すーっと気持ちが落ち着いてくるようになりました。

 本当に寒くなってきましたね。お体に気をつけてくださいね。

「天使と悪魔」

 梨木香歩さんの「エンジェル エンジェル エンジェル」(新潮文庫)を読みました。主人公のコウコは自分が「いい子」を演じているのを自覚していて、そのことに息苦しさも感じています。

 人の意見に同調してしまう自分がイヤなんだけど、最後は「自分らしい」と思うの。それはおばあちゃんとの不思議なふれあいがあってそう思えるようになるの。このおばあちゃんも「いい子」だったらしく、『思い残し』みたいのをコウコとのふれあいで手放すことが出来ます。

 コウコが飼っている熱帯魚、一緒の水槽に入れた魚を全部食べたりつついたりして、残った最後の一匹のエンゼルフィッシュが、コウコの手違いから死んでしまいます。その最後のエンゼルフィッシュは、おばあちゃんからすると『悪魔』です。なんたって他の魚を食べ、仲間のエンゼルフィッシュまでもいじめて殺してしまったんだから。その悪魔に、おばあちゃんは石を振りおろします。「おまえなんか…卑怯者」と。それと同時に、そのエンゼルフィッシュはおばあちゃん自身でもあって、心のしこりでもあります。コウコは「もういいよ…かわいそうだよ」、そして魚に「悪かったねぇ」と言います。するとおばあちゃんは、「神様もそうなげくことがおありだろうか。おまえたちをこんなふうに創ってしまって悪かったねえって」。

 だれも、『悪魔』になりたくてなっているわけじゃないんですよね。おばあちゃんは若いころに、自分の心の中に人を呪う気持ちがあることにびっくりしてしまいます。なんせ「いい子」だから、そういう「汚い気持ち」を持つ自分は、もう「いい子」じゃないんですね。そのことをしこりに思っています。忘れようとしてもずっと心の奥底に潜んでいるんです。よしよしして、「そんな気持ちもあるよね」と言ってあげられればよかったんだろうけど。

 私の場合、その心の奥底に沈んでいる気持ちは、その気持ちを持つことによって、「いい子」と思ってくれている母や学校の先生に対して罪悪感を感じていました。そして「いい子」じゃない自分を肯定することができなくなってしまったようです。もう「いい子」でいるのはいやだなぁと思います。‘素’の自分はどこだろう、と思います。でもね、それに対して、最近は違和感を感じていたの。

 「いい子」を演じてはいる、けどそれはそれで人としてちゃんとやっている、部分なんだよね。それに、「いい子」を演じている自分は客観的に見て苦しそうではない気がするの。そうすると、それって「いい子」を演じているのではなくて、「私」なんですよね。なぁんだ、「私」だったのね。

 だから最後に、コウコが人に同調してしまう自分を「自分らしい」と思えたことに、共感できました。「いい子」って、自分の気持ちを押し殺してしてしまうのは苦しいけど、苦しくなくて「いい子」だったら、すごいことですよね。

 こちらのローカル局で、6年くらい前のドラマ「僕の生きる道」をやっています。その時も見ていたのですが、きのう、もう終わりの方だったのですが見ました。主人公の草なぎ剛さんはがんで余命一年と言われます。自分らしく生きたいと思うのですが、自分が思っている生き方では違和感があるようです。それで気づきます。自分らしく生きる、ということは自分の気持ちに正直に生きる、ということだ、と。じわーっと涙が出てきました。今のそのままの気持ちを大事にするということですものね。

 もうすぐ七夕ですね。今年は我が家も飾り付けしてみました。その竹を、子どもたちが通った幼稚園の理事長先生から頂きました。子どもたちの願い事はそれぞれで、おもしろいですね。

「う・ん・ち」

 こんにちは。お久しぶりですね。毎日いいお天気が続いていますが、お元気でしたか。私は、パソコンの調子が悪いのと一緒に、お腹の具合がよくありませんでした。そのことで、とてもおもしろいことがあったので、お話ししますね。ちょっとくさくて汚いけど…。ちなみに、今は元気です。

 お腹が痛くて朝起きあがれないのが2日続き、医者に行ってきました。大したことはないらしく、整腸剤をもらってきました。私も安心したらそのうち痛みがなくなってきました。そうしたら次の日から出ないのです、うんちが。まぁ、2日くらい出ないのは今まででもあったので気にしないようにしていたのですが、腹痛の後だったので、ちょっと気にしていました。

 3日経ち4日経ち…。でもね、体重は増えていないし肌も荒れてない、体も重くないの。しかし、たまっていることはたしか。どうしたんだろう…。そんなこと考えているとき、その日は工事の人が午後からくることになっていたのですが、何時かは言っていなくて、いつくるのかなぁと思いました。ここ最近、こういう場面があるとドキドキしてくるの。いつくるのかな、来たらどういうふうに話せばいいかな、とか。そしたらお腹がきゅ~っとなりました。

 そうだ、私ったら緊張するとお腹に来るんだよね。久しぶりの場所に出掛ける前とか、初めての場所に行くときとか、小学校の時は遠足の前の日にお腹を壊したときがあったなぁ~。あぁそうか、私はお腹で感情を表現していたんだなぁ。私それまで、うんちが出ないのは感情を表現していないからだと思っていたの。我慢している気持ち、表現できない気持ちがうんち、表現していないし我慢しているから出てこない…と。そうじゃなかったのね、お腹自体が表現していたんじゃない。代わりに、感じてくれていたんじゃない…。

 そしたらね、つい何日か前に、「もう気持ちを感じたくない!」と強く思ったことを思い出しました。もしかしてお腹は、怒っているんじゃないかしら。だからうんちがでてこなくなっちゃったのかしら…。いっしょうけんめい感じて、きゅるきゅる言いながら表現していたのに、「気持ち感じるのいやじゃ!」なんて宣言されたら、不機嫌になるよなぁ。

 それでお腹の気持ちに寄り添ってみることにしました。でもね、怒っているのでもなく、いじけているのでもないのです。なんだかつんとして、すましているの(私みたい)。「寄り添ってもらわなくて、結構」って感じ。でもね、心配じゃないですか、うんち。あっそうだ、それを伝えればいいや。「心配してるからね、うんち出なくて」と。

 そうして1時間たったころ、なんだかうんちが出てくれそうな雰囲気。便秘の時はそういう兆候の時は積極的にトイレに行った方がいい、と言われているのでとりあえず行ってみました。そしたらね、今までは踏ん張っても踏ん張っても出てこなかったのにスルッと、しかも久しぶりだからにおいも覚悟してたのに、健康な時と変わらず…。あらあら不思議。よく、“痛み”に寄り添った方のお話しは聞きますが、もともとは同じですよね。ちょっとくさい話でしたが…。スルッと出てきたときは、なんだかおかしくておかしくて…。

 このことで、私はお腹と話をしてみようと思いました。お腹と私自身が、なんだか似ているのです。なんか言いたいことがあるような気がするのです。いままでがんばって緊張を感じてくれていたお腹、言いたそうで言ってやるもんか、と思っているような感じのお腹、自分の奥の気持ちと繋がってくれる糸口があるような気がしたのです。楽しみです。

「自分をヨシヨシしてみたら」

 土曜に抱っこしていただいて、火曜までは抱っこはしてみるのもも、結構イライラすることもありました。でも、幼稚園が始まり、私も自分癒しもするようになり状況は激変しました。

 何より自分をヨシヨシしてるとイライライがスーッと消えていくことに驚きました。これまでストレスは解消する(外に追い出す)ものだと思っていましたが、そこに存在することを認めてヨシヨシしてあげると、こんなにも落ち着いてくれるんですね。おかげでここ半年続いていた過食がピタッと治まり、3日で体重が1キロも減りました。ほんとにびっくりです!!

 Mさんに「子育て大変なのを誰かに聞いてもらってる?」と言われましたね。あの時私は「友だちなんかに聞いてもらってる」と答えましたが、考えてみたら「子育て大変なのはみんな同じよ?」ってな感じで、本当に大変さをわかってもらって話を聞いてもらったのは少なかったと思います。夫に至っては聞いてくれるどころか、「我慢が足りない!」って言われてましたから・・。

 でも、それに気づいてから積極的に自分癒しをするようにしたんです。自分で話をきいてあげるのでしたら、絶対に期待を裏切るようなこと言われませんからね。(笑)そしたら思った以上の効果にびっくりしました。

 また、夫にも私を抱っこしてヨシヨシしてくれるよう頼みました。その際に説教はせず、ウンウンと話を聞いて、大変だったね、辛かったね、とだけ言ってくれとよくよく言い聞かせてやってもらいました。夫もがんばってやってくれ、私もびっくりするくらい、元気になれました。

 それ以来、私は切れることもなくなり、精神的にかなり楽になりました。

 U子は抱っこしてはじめは泣き叫んでいたのが、3,4日もすると抱っこしてもらいながら、「怖かった」とか「さびしい」とか泣くよりもつらい気持ちを話すようになりました。そして、幼稚園が始まってびっくりしたのは、帰りのバスの中で寝て帰ってくるようになったことです。U子はとにかく赤ちゃんのころから寝ない子で(4か月の火事まではとにかくやたら寝る子だったのですが・・)4月から幼稚園に行き始めてたのですが、帰りのバスで寝て帰ってきたのは3回くらいでしかも10?15分くらいしか寝なかったのです。それがヨダレをたらして寝ていたそうで、先生も「珍しい」と言っていました。また、担任の先生からは落ち着きが出てきた感じがする、と言われました。先週3日登園したのですが、3日とも帰りのバスで寝て帰ってきました。夜も昼寝をした割には9時頃のまともな時間に寝るようになっています。以前は昼寝はしない、夜は遅いで本当にイライラしていました。本当にびっくりです。

「“怖い”気持ちから“繋がっていたい”」

 昨日、友だちとランチしてから“恐れ”“怖い”気持ちが心を占めてしまい、どうすればいいのか…状態です。たぶん参観日後にある役員決めが終われば収まると思うんだけど、この“恐れ”、私は逃げようとしているのでなんとか友だちになりたいと思っています。でもねぇ、どきどきしてどうすればいいのかわからないよぉ。

 私の“怖い””恐れ”の気持ちは今日で第1段階を過ぎましたが、まだ続きそうです。なんとか逃さずに向き合いたいです。

 やっぱり“怖い”“恐れ”の気持ちに付き合うのはまさに怖いです。でも、その気持ちがあると物事に逃げてしまうので、それはやめたいと思いました。今年、小学校の役員をやることにしました。といっても学級委員ですが。仕事的には大したことがあるわけではないのですが、私にとってはとっても怖いのす。

 今までは、“怖い”気持ちがあると逃げ出したいから、役員の仕事を休む、ということはなかったけど、いかに楽な仕事になるようにしたり、文句をいいながらやったり、悶々としながらやり過ごしていました。その、悶々としながら過ごすのが、いやなのです。だって、気持ちを切り替えればいいことだし、役員の仕事も大したことはないんだからやきもきすることもないんですもの。でもでも、怖い…。

 それでがんばってみることにしたんだけど…。なんて考えながら何が怖いのかなと思いました。そうしたら、人が怖い。人とのふれあいが怖い。人と関わるのが怖い、そうです。人を眺めているのは嫌いじゃないから人がいやだ、というわけではないんですよね。人と、自分が関わって、気持ちが動いて、それで…というのが苦手で、怖いんです。そう、人に裏切られてがっかりした時の気持ちがむくむくっと出てきました。役員って、ずるい人は役員は引き受けても仕事はしない、という人もいるんですよね。

 それに私って真面目だから、やるからにはちゃんとしたいんです。でも、やりたくないモードでやっている人もいて、それもまたがっかり。もうそんなの関係ないでしょ!自分は自分で仕事をやればいいでしょ!と思うけど、それもまた勇気のいることで、一人でもやもや…。あーやっばり自分を信じることかぁなんて思いました。裏切られるって事はつらいですよね。でも人は人。ずるい人は必ずいるもので、そういう人に対してどう思えばいいのかなと思います。

 そうそう、こういうつらい気持ち“怖い”なんていう気持ちに出会うと、誰かになんとかして欲しいという気持ちが出てきます。自分でなんとかするのではなく、誰かがなんとかしてくれたり、何かが起こってやらなくても済むようになったりしないかなと密かに思います。それって、自分の気持ちを人に預けてしまうってことですよね。私はそれも強くて、もう自分で自分の気持ちを処理しきれなくなるんですね。自分の気持ちの処理の仕方を知らなかったからね。知った今でも、投げ出したいときはたくさんあるけど。

 感じた事をつらつらと書いてみました。でもね、「人と関わるのが怖い」と唱えていたらだいぶ楽になりました。来週も役員の集まりがあって、怖いんですが…。また来週に怖い気持ちに襲われるかしら。


 今日久しぶりに天心もどきをやってみました。“怖い”気持ちのことも気になったし。「抱っこの輪」にあった“妖怪ねむねむ”に気になったところがありました。“批評家”です。うーん、いるいる、肩の所にいるいる!

 私も“批評家”を感じることにしました。肩の所に、おばけが覗き込んでいるような感じでぬーっといます。こっちにおいで、と言っても動いてくれません。そしたら、「寂しい」感じが伝わってきたの。私の“批評家”は寂しいらしい。寂しくて私の批評家をして、存在をアピールしていたような感じです。それで、寂しいよねぇとよしよししてみました。そこにずっといたんだね。気づいてもらってよかったね。うん、気づいてもらって喜んでる。

 その、「気づいてもらって喜んでいる」と「寂しい」気持ちを感じていたら、「繋がっていたいんだ」と。これは、私の心の底のほうでいつも居た気持ちなんだけど、強く感じたことはなかった、意識したことはなかったものでした。それを強く感じました。「繋がっていたい」と。「繋がっていたい」んだけどうまくいかなくて「寂しい」気持ちでいた。ずーっと、ね。小さいSちゃんからね。うんうんそうだよ。ひとりぼっちの私を感じながら、「繋がっていたいんだ」よね、と確認しました。

 これって、欲求ですね。これって、私の根っこのほうの欲求ですね。私ね、人と繋がることをおそれています。そして諦めていました。でも、根っこの欲求って、そうじゃなかったんですよね。根っこの欲求を無視(好きで無視していた訳じゃないけど)していると、生きていこうという気持ちが萎えてしまうんじゃないかと思いました。だってなんだかわくわくしてきたんだもの。“批評家”がさみしがっていたことに気づけたのもうれしいんだけど。

 それから、Yさんが「小さいSちゃんがこびんに入れてしまっていた気持ち」と言っていたけど、私はそうなんだ、と納得しました。小さいときに仕舞っていた気持ちを取り出してみようとしているんですね。ということは空洞とは違うなと思いました。まだよくわからないけど。でも空洞に「繋がっていたい」という欲求を入れたらどうなるのかなと思いました。

 少し前にね、スースー抜けていく寂しい気持ちを、空洞に“底”を付けて通り抜けないで入れてみたの。そうしたら寂しい気持ちが安心したらしく、そのあとしばらくは寂しい気持ちが出てこなかったの。寂しい気持ちも寂しかったんですね。

 でもね、「繋がっていたい」気持ちを空洞に入れるのは…少し勇気がいるかも。ちょっと怖いかな。

「泣いちゃった」

 冬休みに、自分の気持ちを人に言う、ことをやろうとしたんだけど、主人に対していじけていた私、すっかり忘れてしまいました。でも、いじけるのにも自分の気持ちを言わないと始まらない、ということに気づいたのでした。何に対しても自分の気持ちを確認できたら、いいなぁ。今までは自分の気持ちをスルーしてたからね。少し気に掛けてやらないと、と思います。

 母を呼んでのクリスマス会のお話しができなかったこと、どうしてだかがわかったのです。母がね、会うたびに痴呆が進行していて、仕方ないこと、と思っていたんだけど、天心で母に近くなったからかなぁ、今回はどっと来てしまったようです。他人事だった「母が呆けちゃった」ことで悲しい気持ちを感じることなかった、感じても、少し泣けば大丈夫だったのが、「お母さんが呆けちゃった」になっちゃって、すっかり悲しくなってしまいました。お風呂で泣いて、布団で泣いて、次の日も泣いて、それて落ち着いたと思ったら、お正月にも思い出して泣いて…。その後何度か母とも会っているので、今は落ち着きました。

 泣く、といえば、テレビがお正月に新しくなりました。古いテレビを引き取ってもらったのですが、Aが号泣しました。だだっこの、お手本のような泣き方でした。ずっと、古いテレビを目で追っていたようで、トラックに乗せられ、行ってしまう様子を見ながら号泣。
「いやだー、テレビー、いっちゃやだぁー」
「テレビー、テレビー」
「いやだ、いやだ」
トラックの姿が見えなくなるとまた一段とすごい声で泣きました。ずっとそばにいてあげました。しばらくすると、やっぱり新しいテレビも気になるんですよね。まだ泣きながらですが自分の意志でリビングに行き、新しいテレビを見ていました。夕方、Aは「Aくん泣いちゃったね」と言っていました。その夜も、思い出して号泣し、ひくひく言いながら眠りについたのでした。微笑ましいでしょ。自分のことでこんなに泣いたことないのに、テレビとのお別れに、すばらしい泣き方をみせてもらい、なんだか複雑な母です。

「空洞ちゃん~寂しい気持ちから」
 ぎゅっとしたい気持ちが出てきた。ぎゅっとする所のお腹のあたりは空洞になっているからぎゅっとしたいのかなぁ。空洞を埋めるかのように枕をぎゅっとしてみると…

「空洞ちゃん~寂しい気持ちから」

〈第1信〉

 Yさん、お元気ですか。東京も雪が降ったり大変でしたね。こちらも先日降った雪が溶けたかと思ったら、また降ってきて、今は雪で真っ白です。

 この頃、今まで立ち止まって考えてこなかった気持ちをゆっくり味わうことができるようになりました。あぁ、味わってやらないといけなかったのね、と気づきました。

 例えば、子どもたちがけんかを始めると、本当はいやなんです、争う場面もきらいだし、剣のある言葉が出てくるし…。でも、ケンカも大事なことだと思ってきたから、なんとか「今はそれぞれの気持ちを出しているんだ」と思うようにしているんだけど、やっぱり、いや。それで、それをそのまま感じることにしました。いやだよね、争うことっていやだよね。もっと話し合いで解決できないものなのかしら…と。そしたらやだやだやだーーーと、涙が出てきて…おやまあびっくり。ずっと我慢していたんだね。

 こんな風な気持ちって、たくさんあるだろうなぁと思いました。常識だから、とか他の人がいいと言ってることだから、とか思って自分の気持ちを知らず知らずに押し込めてしまっている気持ち。

 また別なんだけど、なんだかぎゅっとしたい気持ちが出てきたの。ぎゅっとされるんじゃなくて、ぎゅっとしたいの。ぎゅっとする所、お腹のあたりは空洞になっていて、すかすかしてるの。だからぎゅっとしたいのかもなぁ。

 それで寝るときに、空洞を埋めるかのように自分の枕をぎゅっとして見ました。なんだかね、狂おしく、何かを求めるかのように、という感じなの。餓えてるなぁと思った。愛なのかしら。自分の中の何かが欠落して、それが空洞。愛が埋まれば安心するのかな。そんな気がしました。

 でもね、私は愛されているんだよね。主人にも子どもたちにも。なのにどうして飢えてるんだろう。愛、じゃないのかな。また別の大事なものなのかしら。昨日もお風呂で、餓えてるなぁ、と思いながら入りました。

 夕べの夢、ひどかったの。呆けてる状態の母がいて、私は聞きたかったことを聞いてるの。
「子ども嫌いだったでしょ」
「うん」
「その中でも女の子の方が嫌いだったでしょ」
「そうだね」としかめっ面。
「どちらかというと男の子の方は好きだったでしょ」
「そうだね」とにこにこ顔。
私はやっぱりね、とがっかりしていました。目が覚めたときに思い出したんだけど、その時はまぁそんなもんか、と軽く思ってたけど、今こうやって書いてみたら、なんだか悲しいですね。


〈第2信〉

 私、人を無視してしまうときがあります。無視しようとしてそうなってしまうのではなく、何を話せばいいのか考えているうちになんだか無視になってしまったり。あとは、何を話せばいいのかわからないので自分の意志で無視してしまう、ということもありますが、
どちらも‘何を話せばいいのかわからない’ということに気づきました。‘何を話せばいいのか’の中身は違うんだけどね。でもどちらも自分の気持ちをどう表現すればいいのか、わからなくなってしまう時ではあります。

 でも、無視っていやですよね。私も母から無視されたことがたーくさんあるので、その悲しさは身に染みています。今思えば、母もどうすればいいのかわからなかったんでしょうね。自分の気持ちを素直に表現できない人だったから。私は人を無視すること、やりたくないなぁ。今までは自分が生きていくために必要な無視だったけど、人を傷つけてきたことには変わりない。どうしてそうなってしまったか、やっとわかったんだから、もうやりたくない、と思いました。

 とはいえ、なんでもかんでも自分の気持ちを出せばいい、というわけではないから、なんともね。ちくっと、さらっと、ぽろっと、言えればいいんだけどなぁと思いました。そういうのが苦手な私、だから自分の気持ちを守るために‘無視’するしかなかったんだろうなぁ。また堂々巡りが始まった…。

 自分の気持ちがわからなく、どうすればいいのかわからなくなって、いじける、というのもあるなと思いました。

 母の所に行くとなるべく触れようとするんだけど、母の機嫌が悪いときもあるし、触れても他に興味がいってすぐ手を離したり、と「母を癒してあげたい」という思いだけが先走ってる感じです。まぁ、ぼちぼちできればいいかな、と思いました。


〈第3信〉

 昨日は小学校の授業参観でした。それで、来年度の係りを決めることで、私は班の人に話をしなくてはならなくなりました。あーあ、いやだなぁ。いい話だったらお願いもいいんだけど、誰も積極的にはやりたくないよなぁ。と、午前中は悶々としていました。

 天心してみたり、本を読んでみたり…。こういう時って、寂しい気持ちになるんですよね。誰かに頼りたいんだけど頼れない、自分しかいないってわかるんだけど、寂しい気持ちがあってなんだか気持ちが落ち着かない…。
 いくら天心をしても本を読んでも問題は解決しないんですよね。でも、心の持ちようは変わって自分が立つ、のですよね。わかっているんだけど、うまくいかない…。私はまさに‘空洞’に寂しい思いがたくさんあるので、いくら天心しても本を読んでも心は落ち着かない…。そんな感じがしました。

 授業参観は、そんな思いで学校に行ったし、次女が最後の授業参観なのでなんだかしんみりしたり、息子の担任の先生の、授業中の言葉がなんだかいいなぁと思ったり、いろんな事を感じながら帰ってきました。

 またまた寝るときのお布団で。どうすれば‘空洞’ができてしまったのかを考えていました。空洞には生きるためのエネルギーがあるんだと思いました。私は少ないから何かに立ち向かうときに怖じけてしまうんだなと思ったから。そのエネルギーは何? ‘愛’?ちょっと違うなぁ。安心感、存在感、絶対感、なんだかそんなようなもの。それじゃぁどこでいつ貯まるの?

 その時に息子の先生の言葉が浮かびました。
「その時どう思ったのか書いてみて」
道徳の時間でした。なんでもない言葉なんだけど、私はこういうのって大事だな、と思いました。それでその時に、どんな気持ちも、すばらしい気持ちも、認めてあげられれば、もっといいなぁと思いました。ネガティブな気持ちを、そうだよね、そんな気持ちも出てきても仕方ないよね、と。気持ちだけじゃなく、どんなことでも認めてもらうと、私でいう‘空洞’に暖かいものが貯まる、それがたくさん積み重なっていくと、安心感や存在感になっていくのかな。

 Yさんからのメールで、
「自分の気持ちとつながっていて、相手の気持ちを受けるようにしていると、無視という感じにはならなくて、そんなには居心地悪くなくいられる気がする」とありましたよね。なんだかね、なんだろう、温かいものがね、流れたの。繋がっているパイプが、温水チューブみたいに温かかったのかな。やっぱり気持ちを大事にしないといけないなぁと思いました。私の‘空洞’ちゃんは、安心感や存在感が欲しかったのかな。

 えっ、母に甘えてる?そうかぁ、そう写るんですね。なんだかね、私のために呆けてくれたような気がして、涙が出てきたよ。甘えさせてもらえなかったし、甘えられもしない私。母は今、わざと呆けて私に甘えさせてくれてるのかなって。母を癒してあげようなんていいながら、ちゃっかり母の手中に乗ってたりして…。Yさん、ありがとう。いつもたくさん気づかせてくれて…。

 私、最近泣くことにしたの。だって長女の受験や長女と次女の卒業のこと考えたら涙を流さずに過ごすのは無理だ、と思ったから。それでオリンピック見て、高橋大輔で泣いて、カナダのロシェットで泣いています。

 昨日の参観日で、私と同じように受験を控えたお母さんに会うのね。お互い、「もうどきどきでたまらない!あと2週間、がんばろうね」と言ってきました。このどきどき感たるや、ほんとにたまらないですね。Yさんのどきどきをぎゅっ、ありがとう。

 朝は前が見えないくらいの霧で、今やっと、晴れてきました。今日はお布団を干そうと思っています。

「いじけ虫と合体?したら」

 久しぶりに自分を見つめてみました。なんかこう、自分が自分でないような、それが気になってきたのです。鏡を見ることも恥ずかしい?のです。出掛けるときに大丈夫か確認する時は大丈夫なのですが、手を洗うときなど、ちょっとしたときに見てみるということは絶対にしない、と思っているのです。この、‘絶対’が気になっていたのです。

 座布団に座ってもらうワークが今の私にはやりやすいので、そこからやってみました。

 恥ずかしい気持ちと逃げ出したい気持ち。恥ずかしい気持ちはもじもじしてるし、逃げ出したい気持ちは一応座っているけど、もぞもぞして落ち着かないみたい。そうそう、足がなんか気になっていたの。天心をしに和く輪く舎に行って天心が始まると、なぜか足がじんじんするんですよ。そしてだるくなって、立っていられなくなるの。気持ちの‘疲れ’が出てきたんだな、くらいにしか思っていなくて、そんなに寄り添ってなかったんだけど…。

 逃げ出したい気持ち→「早く早く」の気持ち。早く早くの気持ちはその場にいたくない気持ちで、それは今の気持ちを感じたくないんじゃないかと思っているので、今にいたくない自分を想像してみたらすっかりいじけてしまっている自分が出てきました。今まで気持ちを大事にしてこなかったからすっかりいじけている私。いじけている私は、横になっていました。

 ここからどうしよう…息子のいじけに付き合った時はどうしてたっけ。そうだ、いじけてていいよ、と言って、隣にいたりしてたんだ。それでそのうちに息子はこっちに戻ってきたんだよね。そうだよ、私のいじけ虫も、そこにいていいんだよ、いじけてるのって悪くないんだよ。

 いじけると苦しくて早くなくなれって思っていたけど、いじけ虫はそこにいていいんだよ。いじけてていいんだよ。自分のいじけ虫を見ていた私は、そのいじけ虫の中に入ることにしました。それでいじけ虫を味わうことにしました。(いじけることを味わうんじゃなくって)そこに一人でいたんだね。ずっと一人だったね。かまってもらえなくてすっかりひねくれてしまったね。

 なのでよしよしされても絶対に受け入れないよね。うんうん。なんとなく自分と自分がぴたりと合った気がしたよ。それで、Yさんが足をさすってくれたの。そしたらね、ばあーっと涙が出てきたよ。よかった、涙が出て…。どうして足なんだかわからないけど、しばらくさすってもらいました。ありがとう。

 興味があって行ってきたセミナーで、私の、「今にいたくない気持ち」を思いっきりダメだしされて、落ち込んで帰ってきました。がっかりしたよ。

 わかってるよ、今を感じることが大事なこと。できないからセミナーに参加したんじゃん、って。でもそのおかげで、いじけ虫くんと仲良くできたから、いいか。やっぱり天心が一番だな、と思いました。ダメ出しの時はYさんを思い出して過ごしてました。またまたありがとう。

 今日はこれから寒くなるみたいですね。寒暖の差が激しくて、ついていけないです。Yさんも秀雄先生も、気を付けてくださいね。

「明るい未来に向かって」

 この前ね、近くの公園に散歩に行ったら、噴水の音が心地よかったよ。体内音に似てるからなのか、ハグちゃんはその場所でベンチにごろんってさせてたんだけど、何にもしなくても、眠りモードになったよ。外は気持ちがいい音や、自然のいい色や、柔らかい風や、草木や空の匂いに溢れているものね。それだけで、安心するんだね。冬になったら、厳しい寒さだろうから、それまでに、わたしも調子がいいときは、散歩に行こうと思っているよ。

 ハグちゃんは今は泣いてるけど・・・私が寝てるとずーっと眠っているけど、起きていると、ハグちゃんも起きだして、ぐずぐず…えんえん…あーんあーんんぎゃ~となります。かまって!話しかけて!が多いかも。そのほかいろいろ…。

 そして4か月になったハグちゃんは夜は寝てくれるんだけど、寝るまでずーっと大泣きの日が続いてます。お母さんっ子なのか、私にくっついて、ただただ一緒にいるといいみたい。そんなわけで、日中二人きりの時間は、家事はほとんどできてません。おんぶしたままでも、何か家事に集中してると泣くようになったので…。

 なので、夕方パパが帰ってきてから、大忙しです。泣き声を聴きながらだと、なんだか、とっても疲れちゃうよ。早くして~ってせかされてる感じがするんだもの。泣き声がすごくて、パパに洗いものや、洗濯を干すのも頼んじゃう時もあります。

 この間夕食をつくっているときに、私の母親が突然やってきました。そのころから、私の中のチャイルドさんは、なんだか大荒れぎみです。ハグちゃんを構う余裕さえ失って…、だけど、ハグちゃんはなぜかきょうは、そんなに泣かずに、一度パパのおひざで寝ちゃいました。何分か寝たんだけど、洗濯ものを干し終わった後、起きてぐずって、2階で本格的に寝かせようとした時も、おっぱいを飲んでほどほどに泣いて、わたしが背中を向けてる反対側で、指しゃぶりで寝ちゃいました。

 わたしは、泣いてるハグちゃんにかまってあげられないとき、申し訳ない気持ちがあるんだけど、申し訳ないと思うと今度は、母親に申し訳ない気がして、だって、ハグちゃんに申し訳ないと思うそばから、私のチャイルドが、私は、そんなにかわいがられなかったし、必要とされてなかった、という気持ちがして、どうしてもっとちゃんとした、親を選んで生まれてこなかったって気持ちにつながっていくからです。いろんな気持ちがくっついているみたいです。

 親の心がちゃんと立っていない証拠でしょうね。私の中のチャイルドさんが重く、今までため込んでいた、想いをここぞとばかりに、主張して来るんでしょうか。

 ずっと母親を悪くいうことは、絶対にしたくなかった。だけど、その思いが強すぎて、わたしは自分の大事な気持ちさえ抑え込んでしまっていたのかもしれません。私にだって、ちゃんと人間としての気持ちがあったんだもの。辛い時や、悲しいときだってあって、そのたびに一人で、大人っぽく耐えてきた。自分で自分に母親は悪くないって、言い聞かせて、母親の愚痴ばかり聞かされてきたように思います。

 わたしは聞き役ばかり。辛くなるのは当たりまえで…さっきはハグちゃんの泣き声を聞きながら、心の整理をしました。

 心の整理ができてやっと、自分の気持ちを味わえました。それで泣き声に反応した私のチャイルドさんは、とってもとっても苦しくて、自分がなくなるぐらい苦しいんです。大きい兄ちゃんや小さい兄ちゃんが赤ちゃんだったころ、よく二人とも生きてたなあって思いました。何か大きな力に守られていたようにも思うし、子ども自身の力に助けられたようにも思います。

 自分に泣くことを許してこなかったわたしは、子どもの泣き声さえ許せなくて…でも、私はもう大人なんだから、子どもの気持ちさんを自分で抱えて、慰めて親としての心を選ばなきゃ。かわいくて大事、いいこいいこって、親としての気持ちと、チャイルドさんの気持ちの涙が一緒になって、流れてくるよ。

 苦しくなったら、苦しい心の中に入っていくといいんだね。そして、味わうといろんなことが見えてくる。留まると、私の中から知恵が教えてくれる。何にもしたくない、沈んでいくような体の中に、大事な大事な気持ちをずっと捨てないで抱えていて、一緒にちゃんと歩いてきたんだね。

 母親にはもう、会いたくないって気持ちでいっぱいだったけど、ちゃんと味わったら、またこんど会えたら、やさしく出来そうな気がしてきます。ぜんぜん成長しない私の母親だけど、母親は母親なりの人生を歩いて、いつか、大事なことがわかるかもしれないから。

 わたしは、自分の子どもにはその苦しさは伝えないで、ちゃんと孫たちも等しく、可愛がれるように、そして、子育てのときは、わたしも手伝って、苦しさを伝えてしまった分は、愛に変えて還していきたいなぁと思います。

「暗い穴の中から」

 芳子さん、お元気ですか。
 こちらは先々週は寒いくらいの日が続いていましたが、先週は毎日雨模様でしたが蒸し暑く、やっぱり夏は暑くなくちゃなぁと思いました。東京も過ごしやすかったそうですね。そうそう、雨は大丈夫でしたか。全国で起きている集中豪雨、怖いですね。

 今日、ブログを見ました。芳子さんの気になっていた「絆」が言葉になったのですね。それで、読んでいて感激したのでメールしました。なんと、芳子さんと同じようなこと感じていたのです。それは先日からしつこくも続いている私のいじけ虫と(まったくお恥ずかしい)、先日いただいた本を読んで、と校正をして一足先に読んでいたブログのお話し、それがコラボ?していたのです。芳子さんと同じく感じていたことは、
『気持ちと全く向き合ってこなかった、葛藤を避けてきたからなんだろうなということなのです』
というところ。

 秀雄先生のしつけの本の、「葛藤を乗り越える」を読んでいたときに、私に足りないのはこれだな、と思ったの。これはどうして私がこんなにいじけ虫なのか思いを巡らせていたときに読んだの。それで、ブログのお話しを読み、芳子さんが「絆」について考えているということを聞き、ふんふん、と思ったのです。

 今の私は、暗ーい穴の中にどっぷりとつかっています。ただただ、「わからない」がキーワードで、何もかも、「わからない」と言っています。その合間にいじけたり、すねたり、でもちょっと明るい気持ちになったり。ちょっと、気持ちに向き合うのはお休みです。私の本性が出てくるのをじっと待っている、それも「悪」の部分です。書いてて、ホントに暗いなぁと思いました。

「毎月のように通った」

《7月の抱っこ》

 前回の抱っこから一ヶ月、その間私はなんとなくいい感じですごしていました。当然息子もいい感じ。「いい感じ」って言う言葉がぴったりです。

 ただ「さみしいなあ」っていう思いが妙にするようになった気がしていました。そのことを芳子先生に話したら、「じゃ、イライラしなくなったでしょ」と。見事なものですねえ。確かに意味のないイライラもしないし、八つ当たりもなくなりました。さみしい思いに気がつかないからイライラしていたのでしょうか・・。

 さみしさはきっと人間本来の持ち物なのかなあ、一生抱えていくものかも知れないと思いました。上手に抱えていければいいなあ。

 でも、もうちょっと幼稚なさみしさも私の中にあって、息子が私のことを知らんぷりでおもちゃで遊んでいると、なんとなく腕の中がさみしくなって抱っこに来て欲しくなったり、息子が阿部先生に押さえられてなかなか私の方にこられないと、もっと早く振り切って私のところに来て欲しくなったり。最後に阿部先生が私の手をとって張り合っていたときも、息子に抱きついていないと怖かったり・・・。このセッション中だけでなんども、息子に頼っていたり心の支えになっていたりしていたことを発見しました。これじゃあ、息子の赤ちゃんごごろは満たされないだろうなあ。そういえば、1歳頃の抱っこのセッションでも、息子は、私を支えようと赤ちゃんのくせに頑張っていたことをおもいだしました。

 阿部先生が手を取って天心になったとき、やられた!とおもいました。私は、頭モードになっていたのだと思いますが、手をとられるとあっさり体モードになってしまって、そうすると不思議に、思いがけない思いがあふれてくるのでこまります。

 手のひらがとってもじわーっとあったかくて、それが妙にいやなんです。ちょっと手を引いても、離れないし、ゆすってもだめだし、はがしてもだめだし、なんか怖いような、やめてーという感じで怖かった。息子を離すもんか!という感じで必死でしがみついていました。最初は息子を守っているような気持ちでもあったのですが、そのうち守ってるんだか頼ってるんだかわからなくなりました。怖くてしがみついているような気もしました。

 芳子先生が「いや、いや、いや」「怒ってる怒ってる」などあいづちが入って、自分の立場が少しわかってきました。これって、すねている子どもとおんなじ。「私にかまわないで、いやいや、こないで、ほっといてよ、手なんか握んないでっていってるでしょー!」って感じ??

 いったん手のひらが離れたんですよね、指になったときかな、、ちょっとさみしかった。いやなんだけどだんだん「いやだって言うけど放されたらさみしいなあ」っていう思いも湧いてきて、再度手をにぎられた時はまた突き上げるように涙がでてきた。私、誰かにこうやって手を握ってもらって導かれたことがあっただろうか。すねた思いをやさしく受け止めてもらったことがあったろうか。よく考えてみてもそんなことなかった。一人でやってきたんだなあ・・・、ってつくづく思いました。

 でも、そう思ったけど、それもちょっと違うなって思いました。不器用でも差し伸べてくれた手を、受け入れないでかたくなに一人で閉じこもっていたそんな自分もいたのかも知れないと思います。そう思った方がもっとぴったりくる感じです。

 私の心の中にポッとあったかいものがともったような気がするのは、じわーっとした手のぬくもりかな、それともすねて閉じこもっていた思いから引っ張り出してもらってちょっと人のぬくもりに触れた気がしたのかな。わからないけど、私の中に確実に何かあったかーいものがともりました。うれしいあったかさです。

 怖い怖いという思いもちょっと隠れた気持ちだと思います。セッションや天心でちょこちょこ見え隠れする気持ちなんです。何が怖いのかな、人のあったかさに触れるのがこわいのかな。自分に入られるのが怖いのかな、怖い怖いってなんかなつかしい思いのような・・・。

 抱っこに行く前ですけど、朝息子に「(生んでくれて)ありがとう」といってもらって妙に実感がわいて、苦しくて痛くて不安だったけど、生んでよかったなあ、私が今までやってきたことは無駄ではなかったんだ、と実感しておお泣きしてしまいました。帰ってからも、生まれてくれてよかった。息子とここまでこれてよかった、と、今年は息子の誕生日を祝福できる気持ちになれました。

 帰りは電車がとまって大変だったけど、そんなことはなんのその、すてきな一日になりました。どうもありがとうございました。


《8月の抱っこ》

 今回は思いがけず荒れた気持ちが引っ張り出されてきました。気持ちの整理がなかなかつかず報告をかけませんでした。今は少し落ち着いてきたようなので、まとめていこうかと思います。

 今回は阿部先生の「(こんなに)ふてくされて」という言葉から始まったように思います。私はふてくされてなんかいない、と思っていましたが、「すねた気持ち+怒った気持ち」といわれると確かにそれならぴったりだと感じました。

 そういわれると思い当たる気持ちは「もうどうだっていいよ!」という言葉(ああ、今も考えるだけでなんてぴったりな気持ち!!)。「もう、どうだっていいよ!」「もう、どうなったっていいよ!」なにがどうでもいいのか、何がどうなってもいいのかいくら考えても本当にわからないのですが、ただその言葉だけが胸にひびいて涙がでてきました。

 芳子先生がよしよしといって頭をなでてくれましたが、うれしいけどどうしていいかわからなくて体が固まってしまいました。「あ、ふれない方がいいみたい」といって手を離されたときは、一人にしてもらってほっとした気持ちとさみしいような気持ちと、「一人ぼっちだっていいんだよ!」という気持ちとがあって、うらはらだなぁ、となんだか悲しくなりました。

 左手をとって天心になったときも、「いやだいやだ」「ほっといてよ!」という気持ちも出てきました。うまいこと手から逃げられると「やったあ」と愉快な気持ちもしておかしかった。いやだいやだ言うのもけっこう楽しいもんだな、と思いました。

 初めにやっていた息子の体操の時に、「言うことを聞かないで抵抗してみたりして、じゃれ遊びで楽しいんじゃないかな」と阿部先生が言っていたのはこのことかな・・・。そのときはよくわからなくて「ふ~ん」という感じで聞いていたのですが、しばらくたって思い返してみると、私が阿部先生からうまいこと手をすり抜けて「やられたー、油断した」などと言われて、してやったりと愉快な気持ちになっているのとおんなじ・・・?

 あのあと家でやる体操のとき、息子が言うことを聞かないで抵抗している様子も、心なしか楽しそうに私の目に映るのだから不思議なものです。そういえば、息子の「いやだ」と言うのも楽しそうです。「息子、早くこれを着てよ」「いやだ」「早く早く」「いやだ」「じゃ、あれにしてよ」「いやだ」とこんな調子で、なんだか「いやだ」というのがとてもすがすがしい感じなのです。そのすがすがしさに私も思わす笑っちゃうのですが、いやだっていうのも楽しいんだなあ、、と思うようになりました。

 阿部先生が「幸せになってはいけない」「なれない」「なりたい」と色々言っても、私の頭はただ怖くてパニックになっていました。左手は、いやだいやだとすねたり怒ったりするのが弱いのです。それは右手が大のお得意ですが、左手はすごくナイーブなのです。すごく怖がりなのです。それに気がつきました。

 そういえば前に、天心ワークショップか何かのとき、「おいでおいでのワーク」をやった時も同じ思いになったことを思い出しました。右手は抵抗したりもできるし仮面をかぶることもできるのですが、左手のおいでおいでは、すごい恐怖感で足がすくんで体が震えるほど怖い思いをしたことがありました。右と左でこんなに違うんだなあと自分でもびっくりしたことがあったのでした。

 左手でイヤイヤをしてはいたのですが、なんだか怖い思いが強くなってきて身を縮めたくなりました。それでたまごになりたかったのかな、、あのときは無性にたまごになりたくて仕方ありませんでした。毛布とかダンボールとか何かにくるまって小さくなりたかった。芳子先生の手でくるまれてちょうどいい感じで、なが~いため息のような泣き声みたいな遠吠えみたいな嗚咽がでてきました。いい感じで。

 あれはなんだったのかな。子どもが押入れの隅で泣くようなもんかな・・・ちがうか・・。

 帰ってきて1~2週間くらいはとてもつらい思いでいました。抱っこや研修に行くとこうやって心乱されて悲しくなったりつらくなったりするからキツイなあと思ったりしていました。また珍しく?よっぽど電話をかけようかと思ったりもしました。

 さみしい→哀しい→と続いてきましたが、今回はとても怒っていました。何に対しても腹が立つのです。他人に対してが多いかな、物がそこにあるだけでも人がそこを歩いているだけでも腹が立ってしょうがない、といった感じでした。大声で叫んだり、物を投げたり打ったり思いっきり体で当たりたい気持ちでした。

 ある夜、色々抱っこのときのことを思い返していたとき、何からこれが出てきたんだかわからないけど、「もうダメだ」「私なんかダメだ」っていう言葉が出てきたのです。多分、何かに腹を立てて八つ当たりでもして、そんな自分に自己嫌悪したりしていたときだと思います。

 何がダメなんだかいくら考えてもわからないんですけど、もうダメだ。もうダメだ。ってこの言葉が本当にピッタリで、大きな声で「もうだめだー。もうダメだー」って言いながら涙がでてとまらなくなりました。何度も何度も何度も同じ言葉を言っていました。

 それを聞きつけた息子までが一緒に涙をこぼして心配そうに、「それじゃもうダメじゃん~」といって大泣きしていました。二人して「もうダメだー」「もうダメじゃーん」といって大泣き。いま思い返すとちょっとこっけいな風景でした。

 少し落ち着くと、今度はむなしくなりました。

 もうダメだ、私なんかもうダメだ。幸せになんかなれない、息子のいい母親なんかになれない、このままうまく育てることなんかできない。人生いいことなんかない・・。もうダメだ。人生もうダメだ、私はなんでこうやって生きているんだろう・・っていう感じのどうしようもないむなしさでいっぱいになりました。

 ここまでくるともう、さみしいもかなしいもない、涙もない、腹が立つもない、希望も喜びもない、息子もない、人生もない、何にもない、ただ無性にむなしい思いだけがありました。

 これはなつかしい気持ち。とんと忘れていたけど、若い頃こうやってまったく同じようにむなしかったことを思い出しました。久しぶりだなあ、こんな気持ちになったの。当時も腹が立っていたなあ。

 むなしさの正体はわからないけど、今はここまでです。

 この間の抱っこもそうですが、また自分の事ばかりで息子をほおって置いたような気がしました。息子をそっちのけで自分の思いばかりでてきては、この間のように息子にまで「それじゃあもうダメじゃん」って悲しい思いをさせたりしてしまうし、親として失格な気がしてしまいました。息子を抱っこしているつもりで自分が抱っこされていたり、息子に甘えていたり、息子の気持ちをほおって置いて自分の気持ちばかりに目がいっているようで罪悪感を感じてしまいます。

 次の抱っこは息子で。

 出かけたりすると、とんでもなく迷惑な子どもになるのです。ぐずる、いろいろなものをさわる、床に寝そべる、汚いものをさわる、ぶらぶらする、だらだらする、私の育て方が間違っていたんじゃないかと思うくらい、他人に眉をひそめられるようなことばかりするのです。あとは、うれしいときはしゃいでテンションがあがりっぱなしになるし、わたしは本当になにか育て方を間違えたんじゃないかと心配になります。迷惑な行動をとって他人に「これは一人っ子だねー?」などと言われると恥ずかしくて何とかしなきゃと思います。


《9月の抱っこ》

 こんにちは。この間はありがとうございました。充実感の残るセッションでした。またひとつ大切なものが心の中にともった貴重な体験になりました。ありがとうございました。

 前回の抱っこから引き続いてむなしい気持ちが私の中に漂っていたので、それを見つめることから私の天心はスタートしました。むなしさは私の背中あたりに霧がかったように停滞していました。阿部先生が「もやもやをよしよししよう」と言いましたが、私はムリムリという感じ。「じゃ、味わおう」ということで少し味わっていましたが、味わうほどにむなしい思いと、際限がなくきりがない思いで悲しくて涙がでてきました。飄々としたブラックホールがそこにあって前途真っ暗な感じがしました。

 それを言うと阿部先生は、「ブラックホールに入っちゃえ」「(げっ) ムリっ!(いつもいつもやっかいな急所をつかむんだから!)」「じゃあ、のぞきに行こう。本当の自分がいるよ」のぞくだけなら何とかなりそうだったので、そーっとのぞきに行くことにしました。「本当の自分がいるって、何???」ちょっと怖い感じがしました。

 背中を阿部先生に後押しされ、右手は芳子先生に支えられ、自分はなぜかげんこつで胸をとんとんしながらこわごわと近づいていきました。頭は真っ白。何も考えられない感じでした。気持ちは拒否的。でも体は背中を少し強めに後押ししてもらうのが心強い感じで、それほど拒否していない感じがしました。

 芳子先生は私の手を伸ばしていって手が遠くに行きました。私は伸ばしてないけど何でこんなに伸ばすんだろう・・などと考えていましたが、だんだんなつかしい強烈な思いが体中によみがえってきて、伸ばしてるんだか伸ばされてるんだか何がなんだかわからなくなりました。

 つづいて阿部先生が(私が怖そうだから)「○○ちゃんも一緒に」「だめ。こないで!危ないから」

「じゃあ、お母さん」

 この言葉がピンポイントで私の中の何かを突いたのかなあ。お母さん???っていう感じで頭の中が真っ白になって、訳もなく涙があふれて嗚咽が漏れてどうしようもなかった。意味を考える余裕もなかった。

 泣いているのにそれでも芳子先生は手を伸ばし続けて、その手がお母さんを求めて手を伸ばして叫んでいる自分と重なって、泣きじゃくりながら「お母さぁーん。お母さぁーん」って呼んでいるような気がした。本当は実際に叫びたかったんだけれども、そこはちょっと恥ずかしいのでやめておきました。でも心では充分に叫んだんです。

 そしてだんだん「こんなに叫んでいるのに何で来てくれないんだ」「なんで一緒にいてくれないんだ。こんなに必要としているのに」と無念な気持ちや怒りの気持ちが出てきました。呼んでもちっとも来てくれない。どうして私の気持ちをわかってくれないんだ。と腹が立って腹が立って、悲しくなってきました。息子がいつも「ママー、ママー」と呼んでいる風景と重なって、自分とだぶって見えました。感情だけががはっきりフラッシュバックしたような不思議な感覚でした。

 そのあと芳子先生に抱っこされても、今までみたいにハッと身構える感じはあまりなく、「もうそうしなくてもいいんだ」という気がしました。でも半分くらいかな。半分くらいでも、誰かに抱っこされて泣くことができるんだからちょっとした進歩です。

 今でもあの時の感覚が現実感を持ってここにあって、なんだか不思議の国のアリスになったような気分です。現在に生きている私が、なんだか過去の遠い別次元に行って、そこで実際に体験してきたような不思議な気持ちです。

 あの後、動物園に足を伸ばしたのですが、感動覚めやらぬといった感じでずっとボーっとしていた感じでした。手をつないで動物園を歩いていて、私って「お母さん」なんだ・・・、とすごく当たり前のことなのに、やっと「母」と「子」になって手をつないでいるような気がしました。「こんにちは、わたし」という感じです。すっきり肩の力が抜けて歩いていました。

 自分の子どもごころに気がついて、やっとおとなごころが表面に立ったのかな。

 今回は反動で心が騒ぐことはないような気がしていましたが、ただちょっとだけかわいいもやもやがありました。私の母の還暦のお祝いにバックを買ってあげたいと思っていたので動物園の帰りに、悩んだ末ひとつよさそうなものを買ったのです。それをもって実家に行き、渡そうと思ったのですが、あいにく母は疲れたとかで早くに眠っていました。起こすのも大人気ないし、でもなんだか肩透かしをくらったようで、すねた気持ちがわいてきました。ちょうどセッションで表面化していた子ども心が、現実の母に向けてちょっとすねてへそを曲げた感じでした。2~3日もやもやとしていましたが、ハタと「あ、これは例の子ども心だ」と気がつきました。その後はすなおに母の誕生日のお祝いができ、自分のすねた思いをかわいく思うことができたのでした。

 今回のセッションで出てきた思いが、むなしさの正体だったのかどうかはわかりませんが、私が自分でも気がつかないほど同化していた子ども心のひとつだったことは確かなことだと思います。

 でも不思議なことに今こうやって思い返していて気がつくことは、むなしいなあって感じなくなったことです。あと、8月の抱っこの後くらいから飲むようになった寝る前のビールを、あまり飲みたいと思わなくなったこと。ホント、不思議なものです。

 毎度のことながら、阿部先生も芳子先生もいつもぴったりと私と息を合わせてくれて、見事に急所を突く的確なあいづちや、手の添え方ひとつでも、あの体勢でなければあの思いは生まれてこなかっただろうと思われる導き方とか、見事にセッションを誘導していて、どうしたらあんなに見事にできるんだろうと感動してしまいました。それにしても私は、徐々にだけれど素のままでいられて、その素のままの私をあったかくしっかりと支えてもらっているのを実感しています。今までになかった実感です。本当はあったかく見守られてもいたのでしょうが、それを受け取るだけの受け皿がなかったんでしょう。それだけすねていたんでしょうか・・。

 それからまたちょっと気になることは、息子が赤ちゃんの真似をしつこくしたがることです。生まれる前のように丸くなってくるまれて、「ふー、うん」といいながら生んで「おぎゃあ、おぎゃあ」と生まれるまねをしたがったり、赤ちゃんの振りをまねしたり・・、最近やっと卒業したとおもっていた「だっこー」「だっこー」の抱っこ攻撃。あとは赤ちゃんの時よく遊んだ「まねっこ遊び」をやるようにねだるのです。

 私が「母」になることができたから息子はやっと「子」になれるってことなのかなあ、と思ったりもしますが、それにしてはちょっと私もあまり楽しんでできないのです。本音はそれはいやなのです。息子はやりたがるし・・できれば付き合ってやったほうがいいのかしら・・。

 今回はなんとなく期間をあけないほうがいいような気がするので、またどうぞよろしくお願いいたします。


《10月の抱っこ》

 こんにちは。また報告がおくれてしまいました。今回もまた天心もいい感じだったので、帰ってから何か出てきそうな感じがしたので、少しあたためてから感想を送ろうと思って待っていました。でもほとんどそんなこともなく、「あっけなくいい感じ」になってしまいました。抱っこや天心のあとよくあるように、帰ってきてから少しつらくなるとか、悲しくなったりとか、なにか発見していい感じになる反面、多少反動もあることが多かったのに、今回は、恐れていた(期待していた?)反応がほとんどなく、あっけなく現在を迎えています。

 この間の天心は、最初私の中では全く天心モードになっていなくて、「やろうよって言われてもなあ・・・何にも出てこないよ・・」くらいに思ってスタートしました。だって音楽はないし、となりで子どもがにぎやかに遊んでいるし・・集中できるのかしら・・??

 ところが、まったく天心たるや不思議なもので、背中に手が当たっているだけで、さまざまな感情が、少しづつ揺れてきて、だんだん感情だけが湧き出てくるんだから本当に不思議。そしてなんで体が突き動かされるんだろう??なんで体の一部がすごくもやもやしたり痒くなったり体がイライラしたりするんだろう???まったく不思議! なんで??

 最初、私は背中に手を当ててもらっても動けないでいました。どう動いていいか何をしたいかわからないっていう感じで呆然とした感じでいました。どうしていいかわからないようだなあ・・と思っていると、なんだか手がさみしくなってきました。支えてもらいたいなあ、手を添えてそうっと誘導してもらいたいなあ、怖いなあという思いが手に感じてきました。手をとって欲しいなあ、、とおもって手がうずうずしてきて指が小さく動き出してきました。手首も動いたかしら・・指をこすったり手をこすったり、何かしら手が動き始めて、だんだん小指の外側がイライラしてきて、こすり合わせたり壁にたたきつけたりしたくなってきました。手を握り締めて何度も振り下ろし、まるで悲しくてくやしがっている人が、壁や机を思いっきりたたきたくなる感じで。何度も何度もたたきたくなってきました。でも目をつむっているので壁がわからなかったので、壁の変わりに手同士をたたきつけていました。何につき動かされたのか、無我夢中でたたかずにはいられなかったんです。

 手を止めてもらうとそれでもあきたらず、今度は足で何度も床を踏みつけていました。やっぱり悲しくてくやしがっている人が床を踏みつけるのと同じような感じでした。片足だけではあきたらず、両足でばたばたと、しまいには飛び上がって踏みつけていたように思います。となりで息子が「なにしてんの?」って聞いている声がきこえました。ちょっと自分を客観的に見るとこっけいでおかしかったのですが、それよりもそこに出てきた感情に突き動かされて自分でもどうしようもありませんでした。その頃になってちょっとなつかしい感情のような気もしてきました。

 結局、それがどのように終焉をむかえたのかほとんど覚えていません。安心したのかあきらめたのか疲れたのか、泣いたのか泣き終えたのか、なんだかそれさえもわからないまま終わりになりました。

 背中に手が当たっているってすごいですねえ。動きを誘うわけでもない、抑制するでもない、感情や動きを支持するわけでもない、ただそこにある意思の無い手、とでも言うのかしら・・。でもその手が無かったら絶対にそうした動きや感情は出てこないし、それがおもちゃや人形の手では絶対ダメ。人間の手だからこそ、感情や体の動きを引き出しもできるし支えもできるんだなあと思いました。「意思の無い手」と言ったけれども、そういう手だからこそ、「どんな感情にもそっとついていきますよ」という、無言のメッセージになって相手に伝わるのかもしれないと思いました。

 子どもにもやってあげたいです。でもウロチョロと動き回る子どもにはむりそうですね・・。

 帰ってからまたちょっと揺さぶられたといえば、私の実家では、長男の跡継ぎ問題でいまちょっとした問題が起こっているんです。それで私も相談に乗ったりアドバイスをしてみたりと、兄弟中でいろいろな話がでるんですが、ふだんなら冷静に判断できるのですが、あの抱っこの次の日だったせいか、どうも話しに私的な感情が入ってしまうのです。「あの時あんなふうに子育てをしたからだ」とか「お母さんはいつもそうやって見限るんだから」とか、どうしてもそんなわだかまりが言葉のはしはしに入ってきてしまう。「うらみつらみ」っていう言葉が頭をよぎるのです。自分でもどうしようもなくなって、話はさっさと打ち切りにしてその日は帰ってきました。

 それから帰ってきてちょっと思い巡らせてみるとハッと思いあたったのです。天心ででてきたあの感情は、あれは母への感情じゃないかしら。

 天心の最中は、なんでこんな感情や動きがでてくるのかさっぱりわからなかったのですが、帰ってきて母に会い、こんなふうに感情を揺さぶられるなんて、悲しくてくやしかった母へ思いそのまんまではないかしら。

 わたしは母に対し、いい感情をもっていませんでした。今でこそ以前のうらみも忘れて親子で仲がいいのですが、少し前まではあの天心での感情そのまま、うらみつらみという言葉がぴったりな感情でしかありませんでした。小中学校くらいは天心の時のような感情でしたが、大人になって20歳くらいになってきたときは、もっと抑圧された感じの恨みに変わっていました。子どもができてから母にも頼るようになったり、母も私を受け入れたり、また子どもが生まれて抱っこや天心に出合って、しばらく忘れたようになっていました。

 今回の天心や、前回の抱っこであらわれてきたのは、小さい頃のそのまんまの感情かしらと思います。なんかなつかしくストレートな感情で、追体験したかのようです。

 もうすっかり忘れていた悲しくくやしかった思いに気がついた私は、今の大人になった私が、そのかわいい感情に向かって「あの頃はそうだったねえ、、」とやさしくなぐさめる事ができたのでした。

 そのまた数日後、また家族の問題を話し合う機会があったのですが、まったく前回のような自分の私的な感情に乗っ取られることなく話ができました。

 自分でも、「ああ、乗っ取られないってこういうことかな・・」と思いました。

 そうそう、昨日、久しぶりに息子と抱っこになりました。ちょっとした本格的な抱っこになりました。おもらし、おおあばれ、おお泣き、おまけに私はうっかり胸を思いっきり噛みつかれてしまいました。でも最後はしくしくと二人で泣きあい、満足の抱っこになりました。そしたら息子は「また抱っこやろうね♪」とにこにこしていました。最近のはやりだった「あぶちゃんごっこ」は、息子なりの意味があったようです。抱っこであぶちゃんごっこのようにおなかに入っていた時のように抱っこをして、大暴れする中で「こわいよ・・」という言葉が出てきたのです。怖かったんだなあ、私もすごく不安だったなあと思い出して二人でおお泣き。怖かったことをたくさんなぐさめ、生まれてきたことを喜びあい、抱っこは終りを迎えたように思います。詳細はやっぱり無我夢中の出来事なのであまり思い出せません・・・。

 ただ、顔を抱きしめると見えないのが嫌らしく、「みえない、みえない」ともがくのですが、そこだけはひるまず「見えなくたって大丈夫!ママがちゃんと見ているから。守っているから大丈夫」と、しっかりと「大人」の役割をはたせたこと、抱っこでもがいたりあばれるのを、しっかりと抱き通せたことが今回の勝利のポイント(笑)だったと思っています。あばれるのを抱きとおすのはなんとなく雰囲気がわかりました。ここのところ5回抱っこに通う中で自分がされてきたことだから。きっと今まではひるんでいたのかも知れないなあと思いました。

 本当に毎月毎月いい体験をさせていただきありがとうございます。少しずつ毎月自分が穏やかになっていくのがわかります。そうそう、不思議といえば、字がきれいになりました。普段使いの字が前はいい加減だったのに、きれいに書いているんです。ふしぎです。それに散歩ができるようになりました。散歩なんて単純なことができなかった(苦痛だった)のですが、ゆったり子どもと歩いて時間を過ごすことが楽にできるようになって、しかもそのゆったりした時間を、のんびり楽しいと思うなんて考えられないことでした。ほんとうに見えないところで変わってきたように思います。

 わたしがこうなんだからさぞかし子どもも変わったろうと思いきや・・・・子どもはまだまだこれからといった感じです。は~、、私の育て方がまずかったかしら。それともこういう気質の子なのかしら・・。私の子だけに、育て方を間違えたら私みたいになっちゃいそうで、ちょっと心配です。

 11月は予定がまだはっきりしてこないので、ぎりぎりの連絡になってしまうかもしれませんが、どうぞよろしくお願いいたします。


《1月の抱っことこの間》

〈第1信〉

 10月の抱っこのメールを書いてからしばらくして、状況がとても悪くなってしまいました。悲しくってさみしくって、本当に、心に風が吹き抜けるというのはこういう感じかと体で実感しています。ちょうど今の季節みたいにつめたい風が、まるで私は透明人間じゃないかと思うくらい全身を通り抜けて行きます。毎日生活が成り立たないほど「うつ」に入り込んでしまって、ここ1~2週間くらいは食事もまともにつくれないし、ほとんど家事ができません。子どもと話をすることさえ元気が出なくて声を発することもできません。出てくるのは涙ばかりで、車で家に着いたら涙、パソコンに向かって涙、寝ようとして涙、仕事から帰ってきてずっとボーっとして気がついたらもう夜中で、息子はそこら辺で泣き寝入りしているなんていうこともここのところよくあります。

 取り付かれたように楽器を2時間も3時間も仕事から帰ってきてすぐにはじめ、夜中まで、下手すると夜中2時3時までなんてことをやっています。今日はあまりにも悲しいので楽器を持つ気力さえなくなりました。多分やり始めてしまったらいつまでもひいているに違いないので。疲れるからやめました。涙だけがいつまでも出てくるのです。悲しい涙なんです。嗚咽じゃないのです。ただぽろぽろとほおを伝ってとまらないのです。

 私はなんでこんな風になっちゃったんだろう。生活の必要最小限、たとえば着替えとか朝顔を洗うとか、夜に布団に足を運ぶとか、何かを食べるとか、そんな最小限の事でさえ、重たい足を引きずりながらなんとかこなしている状態なのです。

 今日はさすがに病院にでもかかったほうがいいんじゃないかと本気で考えてしまいました。誰かに話をしてみたくても、言葉を何か話そうとしたら涙が止まらなくなっちゃいそうで言葉になりません。その大量の涙の意味を一体誰が理解できるというのだろう、誰にも理解できるわけがありません。何が私をこれだけ悲しく涙をながさせているのか、私だってさっぱりわからないんだから。

 死にたいと思うわけではないんですが、なんで私は生きてるんだろうと生活自体がしんどいのです。生活をする気力が出てこないのです。元気が出ないのです。こんなこんな状態では本当に病院受診したほうがいいのかしら。こんな状態では息子にも悪いなあとそれもつらいです。

 息子はここのところずっと、痰がでるわけでもないのに、痰を出すようにのどを鳴らしているし、お漏らしをまめにするし、私に遠慮をするのかあまり話しかけてもこなくなりました。わたしが嫌がってあっち行ってというそぶりをするからでしょう。

 あまり状況が悪くなってしまったので、どうしようもなくなりメールをしてみました。早めに行ったほうがいいのかしら、時間をあけたほうがいいのかしら。今はこんな状態なのです。


〈第2信〉

 こんにちは。お返事ありがとうございました。「泣けてよかった」んでしょうか・・でもそれを聞けてほっとしました。ああ、やっと泣けるようになったのか、泣いていいんだ、と思いました。泣きながらでも何かやっていいんだと思って、昨日は涙をぽろぽろぽろぽろ流しながら家事をしました。息子の相手はなかなかできませんが・・息子はずっとずっと何時間もテレビをみて私のほうにはいっさい来ません。私も悪いと思いながらも相手ができません。テレビを見ていて私のほうによってこないでくれるのがうれしいくらいです。ほとんど言葉も交わしません。私に遠慮しているんでしょうね、かわいそうです。私の子どもの頃をおもいだします。

 でもきのう、精神科に所属している信用できる友だちにちょっと相談をしてみました。「私、精神科受診したほうがいいかしら」っていう感じで話はじめて、その後、少し時間をとって話を聞いてくれました。さずが精神科看護婦だけあって、だた話をきいてくれました。わけもわからず声を出すと同時に涙が止まらなくなってずっと泣いていました。その日は夕方からそうやってずっと泣いていたので仕事にならず早めに帰してもらいました。職場の仲間にはあまり知られたくは無かったのですが、仕事にならない以上、多少わけを話してもらって、だまって帰らせてもらいました。それを変なふうに捕らえる人もいるんでしょうが、仲のいい何人かは、あったかく見守ってくれている雰囲気を感じました。

 人前の、しかも友だちのまえで弱みを見せたのなんて一体何年ぶりかしら。何年ぶりというより今までにはありえなかったことです。いままで誰にも絶対にありえなかったのが、ほんのちょっとですが、こんなわけのわからない「うつ」状態を誰かに話せて、受け止めてもらったことが自分でも恥ずかしいような安心したような・・・。

 まだまだ声を出したらまた涙が止まらなくなりそうなので、かたくなに言葉をとざしている状態ですが、ちょっとでもこうやって心を開いてくれる人が近くにいたんだということだけでもうれしく思いました。

 しばらくこの涙は止まりそうにありませんが、おとといよりは少し「うつ」を脱しているように思います。早めに抱っこに行きたいとは思うんですが、△△日と△△日は用事があって行けません。△△日はあいているでしょうか。よろしくお願いいたします。


〈第3信〉

 こんにちは。では、△△日△時でお願いいたします。

 とりあえず今日は涙がとまってきたようです。さみしくてむなしくて冷たい風が体中を吹きぬけていくのは相変わらずですが・・・ちょうど胸骨から剣状突起にかけてぽっかりと穴が開いている感じなのです。ぬけがらのようです。どうどうめぐりなんですね。また、悲しい→さみしい→むなしい→のコースなんでしょうか。怒りだけはコースから外れたようですが・・。ひしひしとむなしいです。仕事をしているとそうでもなくて普通に過ごせるんですけど、仕事が終わるとダメなんです。でもほんのすこうし笑顔も戻ってきました。相変わらず、家事も自分の中で免除しています。口を開くのも重いですが息子の相手も少しはできる様になりました。

 楽器でもひいていないとやっていられないっていう感じだったのですが、それさえもむなしく感じるときもあります。さみしい思いをね、息子では埋められないのでしょう、それにきっと気がついたんでしょうか。

 何がなんだか言っていることがまとまりません。自分でもなんだかさっぱりわからないのですから。なにか伝えたいこともあるようなんですが、言葉にしようとするとうまくまとまりません。

 11月、12月とまた仕事が煩雑になってきます。なかなかまた時間が取れなくなりそうですが、できるだけ行けるといいと思っていますのでどうぞよろしくお願いいたします。


〈第4信〉

 先日はありがとうございました。タイトルに「~月の抱っこ」と書くのが恥ずかしいくらい、抱っこするのではなく、私が抱っこされている毎月です。子どもなんてつれて行かなくてもいいのかしら・・って思っちゃいます。・・・が、子どもなしではダメでしょうね・・・。子どもはとってつけた理由みたいな感もありますが、子どもに付き添ってもらわないと行けないような気もします。

 でも子どもがいるのも少しはいいのかしら。この間も、駅から和く輪く舎まで歩きながら「行かな~い。行かな~い」と泣きわめき、座り込み、逃げ回り、でもかわいくダダをこね、泣きべそをかきながらつれてきました。だから子どもが変わったかというと、別にそういうわけでもないんですが、そんなダダを私がなだめたり張り合ったりしながら連れてくる、過程そのものが私の小さな自信にもなったかな、、と思います。

 今月は、先々月のかれこれ3週間の涙は、どこへやら影をひそめているような感じでした。消えたわけでもない、ごまかしているわけでもない、なんとなくどこかでくすぶってひっそりしている感じでした。

 手をとられるとあっさり顔をだしましたね。私はなんて簡単なんでしょうね(笑)。手をとられても、涙は出てくるけど、動く気はまるでしませんでした。ちょっと引っ張り加減にされても、いままでなら抵抗して張り合ってイヤイヤをするところですが、まったくそんな気分になれなくて、なされるがまま、抵抗する気力さえわかない、ただされるがまま悲しみが湧き出てきて涙がでてくるだけでした。ひだすらかなしくて涙がでて嗚咽がでて、それがいつまでも止まらない、という感じでした。

 前のメールで書いたかと思いますが、「泣いてもいい人のところで思い切り泣きたい」という言葉はそのまま実践されたようなかんじでした。

 私の泣き方は前々から感じていたことですが、腹の底からうなるように声を出してため息をいつまでも吐いているような嗚咽の入った泣き方ですね。あれは、天心や抱っこの時だけ出てくる泣き方や呼吸のしかたなのです・・。家で泣くときはあんなふうじゃないんです。

 そんなふうに1時間も泣いていたかしら・・? あのまま続けたら何時間泣いているのかしら・・・。本当に、文字通り「いつまでも終わらない悲しみ」のような気がしてあの最中もそう感じて悲しかったです。

 最後の方は少し泣き方が変わったように思いました。最初は涙と嗚咽だけが意味もなく湧き出ている感じでしたが、最後の頃は、色々考えたり、感じたりして悲しくなって泣いていました。泣き方も「う~~う~~う~~~」ではなく「え~んえ~ん、えっ、えっ、え~ん」(笑)っていうかんじに・・?

 結局、楽器をいくら夢中でひいても、音楽にいくら感動してひたっても、この悲しみはどうすることもできないんだ。と気がつきました。それでまた悲しくなって泣きました。また、誰かいい人ができたとしても、誰がいてもだれにも埋められないんだと思ってまた悲しくなりました。この悲しみは結局自分のものなんだ、ヴァイオリンをひいても、誰かがそばにいてもどうすることもできない、これは私のものなんだと実感したような気がしました。

 阿部先生が息子を抱っこしていたとき、息子の頭をゆっくりなでていて、あれが私の目にすごく焼きついていたのです。私は息子に、あんなふうにいとしく頭をなでていないなあ、という気持ちと、私もあんなふうになでてほしかったなあ、という思いと・・・・。

 もしかして食い入るように見つめていたせいでしょうか、私がずっと泣いていたとき、阿部先生が私の頭をそうっとなでてくれたんですが、それもまた悲しくて悲しくてまたしくしく泣いていました。

 息子が私のひざや背中に来ると不思議に涙が止まってしまうのです。そういえば前回のときもそうだったのです。息子がいると私は充分に悲しめないのね。だから一人の時間がとてもほしかったのかなあと思いました。それを言うと息子は「それは言っちゃダメ」と私の口をふさいでいました。

 あれから帰ってきて、不思議なことに、ちゃんと母親をやれているんです。家事もできるし(久しぶりに食事らしい食事をつくったり、その日のうちに食器の洗い物ができたり・・・)、息子とも遊べるんです。いやにならない程度ですが、息子を楽しませて上げようかなと思えるんです。そして息子のダダこねに付き合えるんです。自己主張を押さえつけるでもなく、無視するでもなく、話し合ったり納得してもらったり、ときには手をとって誘ってちょっと強めにさそってやってもらったりできるんです。それが私としてはちょっと誇らしいんです。泣きべそをかいて甘え泣きもしてくれるのでかわいく思えるときもあったりして・・・。

 私が心ゆくまで(いや、まだ3合目くらいですが・・)泣いたから、ある程度のものが私の中で吐き出されたんでしょうか。それとも、悲しみは誰にも癒せない私のものだと気がついたからなのでしょうか・・悲しみを自分のものとして実感したので、それではじめて子どもとの区別がついたのかしら・・。子どもとの関係と私の悲しみは、また別のものですものね。

 これまで5月からの抱っこの経過をたどってみると面白いですね。初めは自分に何の気持ちがあるか気がつかなかった。ふてくされ、すねて怒ってつっぱっていたんですね、散々すねてダダをこね、あるときさみしいきもちに気づいた。悲しみがあふれてどうしようもなくむなしくなった。涙がわけもなくあふれてきてなぜだか止まらなくなった。ある程度泣きつくしていったん影を潜めた。そして今回は、手をとられてもすねていなかったですもの。すねたいなって感情もちょっとわきましたが、そんなことはもういいやぁって、怖いって思いも全然感じなかったです。身を任せて悲しい思いをそのまま泣いていたい感じでした。

 そういうことを全体的にかんがえてみるとすごい進歩ですねえ・・。本当にありがとうございます。おかげさまでやっと悲しんでもいいんだ、泣いていいんだと自分に許せるようになったんでしょうか。

 これからもますます自分と仲良く・・やっていけるかな・・・?

 今はこんな感じですごしています。職場でも責任ある仕事をひとつ任され、自分としては苦手な分野なんですけど、あっさりやってのけられるような気がしています。ちょっとずつ自信もついてきたようです。悲しくても大丈夫だし、息子とだってちゃんと張り合えるし、甘え泣きだってさせられるんだぞ(笑)。まあ、ほんの少しの自信ですが、ちょっとはいいかな。


《4月の抱っこ》

 こんばんは。先日はありがとうございました。あれからも無事平穏にすごしています。いままで抱っこから帰ると、悲しくなったりむなしくなったりしていた時代は過ぎてしまったのか、今回も、抱っこから帰ってもなんだか平穏な毎日です。おそらく前回くらいから平穏です。

 たしか2月に、ひたすら泣き続けた1時間だった日で・・、3月がお母さんに頭を下げたときだったかしら・・今月は、また泣き続けそうだったけど時間切れでした。腹のそこからあふれ出るような嗚咽は、家では出てこないので、相談室の抱っこのとき、受け止めてくれる人がそばにいて初めて出てくるものなのだと思います。

 いつになったらやむのやら、、まだまだそれは続きそうな予感です。

 今回は抱っこが終わってからも「ゆううつ」な思いにまとわりつかれてしまって、ゆううつでゆううつで仕方ありませんでした。でも、乗っ取られている感じではありません。だって、抱っこの帰り、ゆううつなりにもショッピングしてお茶して帰ったもの(笑)。

 乗っ取られない生活。悲しくなるときもあるし、むなしい思いも根強いけど、あまり左右されなく生活が出来て、Rにも目が向いて、家事もそれなりに出来て、楽器もやって・・と、ふつうの生活をしています。なんだか、まあまあいい状態でしょう・・?

 でも、乗っ取られないのもちょっとさみしいですねえ、、悲しい気持ちやむなしさ、さみしさに乗っ取られて気分をひたらせるのも、一種なぐさめのような意味合いもあったのかもしれないですね。なんだかそんな気もします。

 乗っ取られ続けてきた人生を送ってきた私にとって、この普通の平穏さが、なんだか平穏すぎて勝手が違う・・そんな戸惑いもほんの少し感じつつ・・・でも、これが普通なんでしょう。大人心が立つって、なんて平穏な平坦な毎日になるんでしょうね。

 あまり平穏すぎても、また「ねえねえ、平穏だからって私たちを忘れないでよ」って言いそうな乗客がいますね(笑)。

 抱っこから帰ってきてゆううつに落ち込むかと思いきや、2~3日Rの抱っこが続きました。出来ましたよ!ちゃんと抱ききれ(?)ました。つばを吐かれるとひるんじゃうので、考えに考えました。吐かれないように両ほほをぎゅっと圧迫して唇が突出してもおかまいなし(笑)、「痛くしないで~」とかわいく泣いてダダをこねていました。

 今日も、すてきな抱っこになったんですよ! 祖母に一日Rを預かってもらったのですが、帰ってきてからどうもテンションがあがりっぱなしで、でも集中力もなくてへんだなあ、とおもって何気なく始まった抱っこ。落ち着かせようと張り合ったのが始まりでしたが30分ほどもみあっているうちに、どうやら、祖母に「厄介者、迷惑者」扱いをされたように感じて存在感をなくしていたらしいのだ、と気がつきました。

 祖母は疲れがたまっていて、預かるのはいやだといっていたのを無理にお願いしてあったのです。「だいじなだいじなR」という言葉で泣き出して、「僕はやっかい者なのかなあ・・」というと、もがき出し、「おばあちゃん」で大きく泣き出していました。

 あっ、と気がついて、「おばあちゃんは疲れたり、悲しくなったりするとね、Rの事に頭がまわらなくなっちゃうの。でも本当は大事な大事なRなんだよ。ママとおんなじだね」ってじっくり話してあげたら、目をパッチリ開いてじっと私をみつめ、納得したようでした。

 そしてまたふぇ~んと泣き出して、「おばあちゃんはRがビデオ見たかったのに、あっち行っててっていったんだあ~」としくしく泣き出して訴えてきました。よく内容はわからないけど、おばあちゃんが疲れててちょっととっつきにくかったので、Rは存在感(自信)を無くしていたようでした。

 抱っこの後にこにこで抱き合い、落ち着きを取り戻したようでした。

 そうそう、最近、いいこと考えたんですよ! 仕事から帰ってきてからの時間配分です。8時まではご飯作ったりヴァイオリンやったり片付けしたり自分の時間にする、8時から9時までRと遊ぶ。9時からお風呂入って10時には一人で寝る。10時以降はママだけの時間。二胡もやるしパソコンもやる。考え事もする。ママの時間も必要なのよ・・ってRと話をし、決めてみました。そしたらほーっと安心感が・・。

 割り切って家事をこなせるし、遊ぶ時間も私もあきらめてあそぶ気になるし、遊びを切り上げる時間もぐずっても説得できるし! もちろん、場合場合で時間配分は変わりますが、説得しやすいし、私も邪魔されない時間が堂々ととれるっていう安心感があります。

 それを話し合って決めたら、自分の時間も主張できるし、遊びも割り切れるし・・・ホッとしました。だらだらとすごして自己嫌悪に陥ったり、自分の時間も取れないじゃないかと逆切れしてみたりしないですみますもん。

 われながら「傑作!」と思っています。

 きっとダダこねも出てきますよー。それもかわいいからいいのです。納得させる過程も意味あるものだし、なにより自分の時間を堂々と主張できるのがほっとします。Rとのあそびもそれなりに楽しいものもありますし、満足げな表情もかわいいものです。家事はいい加減ですが(笑)。

 4月の抱っこから直接どうこうというわけではありませんが、こんな感じで無事平穏なくらしぶりです。まあ、いいことなんでしょう・・。

 元気が出ないのは相変わらずです。私って、いつも元気ないなあ、と最近感じるようになりました。元気が出ないで、ゆううつ。そして時々悲しくさみしくむなしい。

 私の感情の「つぼ」は胸骨です。胸骨をRによしよしされると切なさがこみ上げてきます。まさに「切ない」のです。遊びの最中でも、楽しい最中でも、胸骨を触られると切なさがふっと湧き上がります。私の永遠のテーマでしょう・・。

 落ち着いた生活を続けていくとまた何かが動き出してくるのでしょうね。そんな予感がしています。いまはまだ、落ち着いた生活を味わいつつ、なんだかちょっと違和感をかんじつつ。平穏な生活をおくっていようかと思っています。

 長くなりましたが、理解に足りる文章だったでしょうか・・。5月の抱っこ、楽しみにしています。また、どうぞよろしくお願いいたします。

追伸:「平穏で平坦な毎日、まあまあいい状態でしょう?」というような事を書きましたが、これはちょっと自分への皮肉の意味合いも込められているのです。決して満足ともいえないけどただ平穏です。いいんだか悪いんだか平坦な日々。何を求めているのだかわからない物足りなさも感じつつ・・・といった感じなのです。この状態が私が求めている状態ではないような気がするけど・・まあいちおう平穏無事です、という風に言いたかったのです。

 読み直してみて誤解を招きそうだったので、いらぬ注釈かもしれませんが伝えたくなりました。5月は早めにいけるのでうれしいです。ちょっと早め早めで行きたいように感じています。またよろしくお願いいたします。