大切な気づき

「そこに幸せは絶対にある」

 つい数日前の朝日新聞のひととき欄に、ずっと子どものころから冬になるとしもやけに悩まされていて、この時期は痛い、かゆいばかり思う季節だという方の投稿が載ってました。

 その方の高齢になられたお母さまが、娘の霜焼けになった手を見て、「私の手と取り替えてあげたい」と言ったそうで、そのお母様の一言に、お母様の深い愛を感じて、涙を流して、しもやけになってよかったと、しもやけに感謝したそうです。そうしたら、軟膏が劇的に効いて霜焼けが治った!そうです。

 私ね、これを読んで、すごくいろんなことを感じました。この方のしもやけは、本当に長年の苦痛だったけど・・・・それは、愛を実感できるその時を、ずっと待っていて、お母さまからの大きな愛を受け取るために必要なものだったわけで・・・・そして、しもやけになってよかったと、感謝したら治っちゃって。

 苦労は幸せの前半分、というのと、何事にも意味があって、感謝すること、あぁ、本当にこういうことってあるんだなあって、思いました。

 だからね、今私が感じている心の中のひっかかりや、苦しいと思えることも、長い時を経て、幸せや愛を感じさせてくれる、大きなギフトなのかもしれない、と感じられるんです。それって、結局、苦しみも、つらさも、愛の一部、なのかなぁー。

 それにね、昨日Mちゃんが、私に、MちゃんやHちゃんが小さいときはどんなふうにしていたの?って聞いてきたんです。

 それでね、おっぱいをあげたり、おむつを替えてあげたり、お風呂は抱っこして入れてあげたり・・・・大きくなったら一緒にお散歩もしたし、ベビーカーに乗せて買い物にも行ったよ、そうそう、Hちゃんが生まれてからは、Hちゃんをスリングに入れて抱っこして、自転車に乗るMちゃんを押しながら、スーパーまで行ったっけ、なんていろいろ思い出して話したの。

 それでね、すごく、不思議!と思ったのが、その当時まっただ中にいた私は、子育てって大変!って思っていて、でも、なんとか幸せを感じなきゃと思っていて、苦しさに飲み込まれる日もあり、子育てが楽しいと思えない日もあり、手放したいと思った日もあり、そういう事ばかりを思っていたはずなのに・・・・・・

 今、その時の光景を思い出すと、とってもとっても、幸せなんです。思い出す私の姿の中には、もちろん、その苦しさを抱えた私も含まれているんだけど、でも、でも、そういうの全部ひっくるめて思い出す当時の光景の中には、とってもとっても大きな幸せと愛おしさが、あるんです。確信を持って、あのときは、本当に幸せだった、と。今の私は、苦しんで頑張っていた当時の私を、とっても愛おしく思えるんです。よく頑張ったね、あの当時は一生懸命だったね、って。

 だから、Mちゃんに
「そうねえ、いろいろあったけど、でも、これって、ほんとに幸せよね」
って堂々と言ったら、Mちゃんはとても嬉しそうでした。

 よくわかんないけど・・・・・今の私の感覚でね、渦中にいるときは、苦しさやつらさという色眼鏡がかかってしまうし、それはしょうがないことなんだけど、苦しみしか感じられない時でさえ、そこに幸せは絶対にあるんだ、って、昨日のMちゃんとの会話を通して、信じられるようになったような。

 何ができて何ができなくて、って、普段は思ってしまうけど、でも、思いだす光景とその幸せを感じるとき、そこにあるのは、私がいて、子どもたちがいて、あの日あのときがあって、ただ、それだけなんです。そこに私たちの日常があった、それだけ、それこそが、幸せ、って。

 そうやって、今この時、この瞬間を、いつも幸せと思えたら、いいのにね。それができるようになるために、修行しようと、今生生まれてきたのかなぁ(笑)。

 どんなときにも、たとえ自分が気づけなくても、そこに絶対的な大きな愛や幸せはある! そんな確信に近いものを感じているだけで、苦しさに飲み込まれているときも、ちょっとは楽、かなぁ。

「幸せだなーって、ただただ感じていればいいんですよね

 あたたかくなりそうでなかなかならない…春の待ちどおしい今日この頃ですが、お元気でいらっしゃいますか?

 先日は忙しいところを日程を調節していただいてありがとうございました。おかげさまで、Sの入園という第一歩を、少し淋しいようなおしいような気持ちを抱きつつも何とか踏み出せそうです。

 本当に先生のおっしゃるとおりなの。子どもに対しても私なりに一生懸命やっているつもりでいても、まだ足りない、まだダメだ…と自分にダメ出ししてしまうんですよね。自分が“これでよし”といってくれた人がいなかったからかな。自分のような思いを子どもにさせたくないと、私は充分に子どもを可愛がってあげられているかな、子どもたちはさびしい思いしていないかな?と不安になってしまうんですよね。

 そして私の考え方、感じ方のクセのようなものも、先生は教えてくださいましたね。いままで自分でも気付かなかったけれども、本当にその通りなんですよね。生活を楽しめないというか、今を楽しめないというか…。例えば洋服を買っても素直に“嬉しい!”って思えばいいのに、“私が洋服買っても本当にいいのかな…”って罪悪感のようなものが浮かんでしまう…。

 ずっと健康に縁がなく、ふさぎ込んでいる母や孤独な父をみてきて、ずっと私だけが幸せを感じてはいけないのでは…と心の底で思っていたのかもしれません。ここ何年か私の心がずっと苦しかった一番の原因は、年老いていく父、母を見て、このまま“幸せ”というものを味あわないまま父母は死んでいってしまうのだろうかというものだったように思いました。私のことを授かってよかったと言ってもらえず、幸せに笑う父母を見ずに終わってしまうのか…というものだったと思います。

 だからこそ、私がいつも我慢ばかりしていたり、幸せでなかったら…子どもたちは本当に苦しいのではないか…と気付くことができました。とにかく何にでも罪悪感!?を感じてしまうのが、私のクセだったようです。例えばちょっと主人の昼食をつくれなかった…とか、子どもを預けて出掛けたとか、本当に今迄気付きませんでしたけれど…。これからはおいしいもの食べたりお買い物したりしても心から楽しんで、幸せだなーってただただ感じていればいいんですよね。妙な罪悪感を持たずに…。それがこども達の喜びにもつながるんですものね。すごく大切なヒントをいただいたと思います。

 主人のこともです。11月に大ゲンカした時はどうなることかと思っていましたが、先生にお会いして主人と話し合った時に、すまなかったと主人が言ってくれた…ということをお話ししましたが、先生がすごいことよね!と言って下さって喜んで下さるまで、なんだかキツネにつままれたように、主人の行動がまだ実感がなかったんです。先生に言ってもらって家に帰って生活してみて、今じわじわと嬉しさが広がっているかんじです。今迄つかえていた夫に対してのわだかまりがとけていくようです。

 今回和く輪く舎におじゃまして、先生とお話しさせていただいてもう10年近くになるつながりの時間(抱っこや秋山先生との)をとても感じました。それこそYがまだ2才位の時からのおつきあいなのですものね。だからこそ、私や私たち家族のことをわかってくださって、いろいろな出来事をを支えてもらって、今があるんだなあとしみじみ思います。

 秋山先生、どうもありがとうごいます。このような出会いを与えて下さった神様に感謝したい気持ちです。 

 Sがいない時間、インターネットに挑戦して、土地さがしなどもしてみようと思っています。とてもよい年になりそうな予感がしています。またこれからも変わらず、よろしくお願いします。先生、最後になりましたが、目の方はいかがですか?どうぞお大事にして下さいね。楽しく生きるヒントを大切に毎日過ごしています。

「おにぎりぎゅ~っ!」

 昨日は夜おにぎりにしたよ。ぎゅ~って両手で包み込んで御飯に安心を伝えるみたいに、優しくっていうより、力を込めてどんなに暴れても(?)放さないような握り方だよ。少しは、おいしくなったかな?

 いつもはもっと軽く握って食べてるうちに、崩れてくるんだけど、昨日のはしっかりおにぎりのままだったよ。Pちゃんのおにぎりは硬い方?柔らかい方?

 昨日はね、車の中で、「手放す」っていうことをずっと考えていて、私は何を今手放せばいいんだろうって、あれから気がつくとずっと考えたりしていたんだよ。Pちゃんに聞こうかなぁって思ってたんだけど、それはきっと違うでしょ。だから、自分で少しだけ抱えていたんだけど、昨日車の中で、たぶん、手放すのは何かへの執着心なんだって思い出したの。前に抱っこの何かに書いてあったことだったよね…。それはだから、外にあるものじゃなくて私の中にあるんだよね。

 それを上手に手放すには、現実をそのまま受け入れる力がまずは必要でしょう? そのままを受け入れたりする力があれば、それがそのまま上手に手放すってことに繋がっていくのかなぁ…って。それで、現実を受け入れるってことは、両手で抱え込むってイメージでしょ。だから、何かの執着心を手放すには、まずは現実を抱きかかえる力がずっと必要になるのかもねって。

 捨てるではなくて、逆の方の力。私は手放すってことは捨てることとどこか似ていて、捨てられるって恐怖心に繋がってずっと怖かったんだけどね。上手に手放すってことは、現実をいかに上手に抱きしめられるかってことなんだね、今ここにいて、目の前にあるものをいかに上手に抱きしめられるかってことなんだよね。

 昨日は夜御飯、昨日はおにぎりをぎゅ~~って握っていて、そのときの考えてたことを意識していたわけじゃないけど、なんか包み込むのが気持ちよかったから、包み込む心地よさをただ感じていたんだよ。そのときの自分は感じるだけで頭ではなんにも分かってなかったんだけどね。今考えるとね、そのときは「今ここ」に確かに居られたの。苦しいとかっていう思いもなくて、おにぎりをぎゅ~ってすることで、縛られていた心がきっと楽になっていったんじゃないかな?って。うまく説明できないんだけど、おにぎり握ってる手はなんだか、Pちゃんの私の手を包み込んでくれた時の手と重なって、ぎゅってしていながらぎゅってされた時の包みこまれる安心感に繋がっていって、単純だけど、それだけでそばにいる感じがしたの。

 目の前のおにぎりを握ることで心を縛っていた想いがほどけていったのかなぁ。そのときの私は大人心で居られて、すごくぎゅ~に込めた愛情っていうのかな、そういうのが私の手からおにぎりに伝わるのを楽めていたの。おいしくなあれ!って。

 そばにいても、手放せなかったら、心の手にはそれ以上何かが出来る余裕がなくて、抱きしめられなくて、包み込む包み込まれる安心感が感じられなくて苦しくなるけど、遠くにいても、執着心を手放せたら、心の手に余裕が生まれて、包み込む包み込まれる安心感でいっぱいになるのかもれないね。

 自分の心にしがみついていた手が、何かを誰かを抱きしめる手に変わって、抱きしめることで自分の心が抱きしめられたようにまた戻ってきてきっと安心するんだね。

 書いてたら、なんだ…、失うものなんて何にもないのかもね。

 分かったようで分かってないようで…。でも執着心に気づくことが大きな一歩なのかな?

「感情と欲求」

 暑い日が続いていますが、お変わりありませんか。我が家の子どもたちは学校で、部活で、遊んでたっぷり汗をかいてくるので、3人が集まるととっても臭いです。

 先日、T(小4)が「上履きがなくなった」と泣き始めました。もしかしていじめ?とよぎったけど、わけを聞くといじめではありませんでした。Tは特設バスケットに入っているのですが、いつもの練習ではランドセルを体育館に持っていき、練習が終わればそのまま帰れるようになっていました。その日は試合の日で、市内の4つの小学校からバスケット部の人たちが来るので、ランドセルは教室に置くことになっていました。試合が終わり、ランドセルを取りに教室に戻るとき、他の子はバッシュ(バスケットシューズ)から上履きに履き替えていったのに、Tはバッシュのまま教室に行きました。Tも忘れてたみたい。それで取りに戻ったら、上履きがなかった、ということでした。もう遅くなってしまったけどとりあえず体育館に行って見てくることになりました。(小学校が近いから、こういうときはいいですね)でもありませんでした。それで、次の日の朝一番に担任の先生に話してみることを約束しました。上履きには名前が書いてあります。学年は3年のままだけど。だから先生の所にあるかもしれないし。

 次の日、どうだったのか聞くと、「Mちゃん(友だち)が持ってきてくれた」「えっ?」なんかよく訳がわからなく、でもプールの時間が迫っていたし、あまり強く追求すると混乱して怒るので、そこでやめました。プールのお迎えの時、車の中で詳しく聞くことにしました。「朝先生にお話ししなかったの?」「うん」「どうして?」「うーん、わかんない」Tって、時々こんなんです。うまく説明できないのか何か考えがあるのか、詳しく聞こうとするとうまく説明できないために「もういい」と言ってしまいます。それはいいとして、私はどうして朝一番に先生に話をしなかったのか、その点が引っかかりました。すごーく、ショック、なんだかずしーんと落ち込んでしまいました。わぁ、どうしてだろう、Tが私の言うことを聞いてその通りにしなかったから?

 それはある。でもそれだけじゃない気がする。そうしたら、なんか怖い気持ちが出てきたの。怖い、怖い。何が怖いのかな。そうしたら、私は上履きがなくなったということはなかったんだけど、いじわるをされたことはあって、それは今思えば他愛のない、ちょっとしたいたずらなんだけど、学校が好きじゃなく、友だちも少なかった私にはそのちょっとしたことがとても怖いことなのでした。、だから、上履きがなくなった、それはいじわるではなかったけどどうしてなくなったのか、どこにあるのか、見つかるのかわからないときにはやはり不安で、それで怖くなってしまったみたいでした。あぁ、これは私の気持ちなんだ。Tのこと心配だったけど夜にはすっかり元のTに戻っていたし、Tはなんとかなるさ、くらいに思っていたのかもしれませんね。私もさほど心配はしていなかったけど、自分の小さいときの気持ちがひょっこり出ていたのですね。

 それと似ているような話。今朝、A(小2)は起き抜けに泣き出してしまいました。夜中じゅう、何か辛い夢でも見ているのかずっと怒っていました。どうしたのかな。今朝は私はお腹の調子が悪く、Aが泣いているときに近くに行けませんでした。でも私は何だか怒っていて、どうせAにどうしたのか聞いてもいつも答えてくれないんだよな。慰めようにも慰められないし、どうして泣いているのかの訳もわかんないし。行っても仕方ないよな。あ、どうして泣いているのか心配なのは私の気持ちなんだ。私にとっての解決はAがどんな気持ちでいるのかを知って慰めて、にこにこ顔になることだけど、Aは気持ちをはき出すことだけでいいんだな。私の‘解決すること’は私の気持ちから出てくることなんだ。Aの気持ちを尊重しつつ、私の気持ちとちゃんと線を引いていないとごっちゃになってしまいますね。

 そうか、ここにも欲求と感情が出てくるんですね。解決することって、私の欲求ですね。私は子どもたちにいつもにこにこでいて欲しいんですね。そりゃ、気持ちを吐き出すことも大事だってわかっているけど、最終的にはすぐにでもにこにこになって欲しいんだな。でもすぐににこにこになるわけじゃないし、Aはしゃべってくれないから、心配という気持ちになってしまうんだな。

 子どもたちや家族がいつもにこにこでいて欲しいという気持ち(欲求)に気づいて、いつも‘いらっ’ときてしまうのはここから来るんだとわかると‘いらっ’ときても大丈夫な気がします。にこにこでいて欲しいんだもんね、でもAにはAで何か気持ちや欲求があるからそうなるんだろうなぁと認められそうな気がします。

 それにしても、私のいつもにこにこでいて欲しい、この気持ちはどこから来るんだろう。Tの上履き事件の時みたいに子どもの時からのものかもしれないし、思いがけないところかもしれないし。なんかね、怖い気持ちが子どもの時の気持ちから来たんだ、とわかったときに、自分の気持ちを慰めやすかった、ような気がします。

「生きるための力」

 芳子先生へ
 突然ですが、生きるための力についてふと思いました。

 生きる力、生きる希望みたいなものは「誰かに深く愛されること」、私はそれだけが一番大切なことだとずっと思っていました。どんなことがあったにせよ、その愛情が自分の一番の苦境を救ってくれると、そう思っていました。でも今朝突然気づいたのです。それも力になるけど、本当に生きる力になるのは自分が誰かや何かを深く愛することだと気づいたのです。

 どんな出来事にも動じない強さみたいなものは、自分の強い気持ちだと。誰かの強い気持ちではなくて自分の気持ちだと・・・。

 そう考えると、分かったんです『100万回生きたねこ』(佐野洋子作、講談社)の、あのねこが、なぜ何度も生きたのか。ねこは誰のこともずっと愛せなかった・・・。でも、最後に誰かを(白いねこを)愛することが出来てやっと、人生の課題をクリアー出来たんじゃないかなって、それで神様がもう生きなくてもいいよって、そういうことだったんじゃないかなって。

 生きるということは、大事なことに気づくための修行なのですよね。そして、あの絵本が伝えたいことは「人生で大事なことは愛し愛されること」、それ以上大切なことはきっと無いよ・・・そういうことだったのかも知れませんよね。

 世の中には、難しいことが数多く存在して、大事なことが見えにくいですよね。伝えたくても、伝わらない。簡単すぎて、シンプルすぎて誰も目に留めてくれない。そのことがどうしようもなく私を悲しくさせるし、自分が誰かに出来ることは何も無いという無力感にも繋がっています。

 前はそういう暗闇から抜け出せなかった。だけど今は、誰かを強く愛することが出来ている今は、どんな暗闇に落ちてもすぐに抜け出せてる・・・。たとえ、私の周りの世界がどんな悲しみや苦しみに満ちていても、そう感じることが多いとしても、誰かを強く思うだけで、その気持ちだけで、私は生きていることに幸せをみいだしている。現実は内的なもののあり方でずいぶん違って見えるのですね。

 これからも誰かや何かを深く愛せる・・・そいう人生でありたいです。わたしにとっての幸せとは、そういうことでした。だから、今はとっても幸せだよ。

「しあわせって」

 ちい兄ちゃんから風邪がうつって喉が痛かったけど、メールを読んで草原にいるように心はとても、穏やかになりました。体の痛みは、心のしあわせで、消しちゃえるんだね。人間は体だけで生きてるんじゃないって教えてくれてるみたい。そんな場所に辿りつきたくて、痛くなったかもしれない喉さんにもありがとう。ちい兄ちゃんも、そんな場所にたどり着きたいかもしれない? 私の中で、一緒にしちゃおう。

 ちい兄ちゃんってね、不思議くんで楽しいんだよ。一緒にいると案外不思議なこと考えてるんだなあって思う。ちい兄ちゃんワールドも草原に広げちゃう。

 ちい兄ちゃんの風邪が、大きい兄ちゃんやパパにもうつって、ハグちゃんも昨日は、眠れないぐずぐずが…おんぶしてもぐっすりは寝てくれなくて、わたしもなんだか疲れてしまって…(泣かれないようにおんぶをしてる私もいたような気がする…)、ハグちゃんにも、風邪がうつったのかなぁって言ってたら、ちい兄ちゃんが、なんだか、「立場がないんだけど…」とかなんとかボソっと言って、申し訳なさそうにしてた。

 そういうので、自分を責めるなんて思わなかったから、自分が無意識に発した言葉に反省、気をつけないとなあと思う。「違うよ、これは、しょうがないことなんだよ」とパパと一緒にフォローしたけど。だけど、そういう些細な出来事で、自分を責める気持ちに響くなんて、なんだか、切ないなあって思った。そういうのは、やっぱり小さい頃に出来るんだろうから…って、私の中にも、同じように自分を責める気持ちに繋がっていた。私とちい兄ちゃんは体と心も一緒に繋がっているって、証拠だね。

 Yさんと繋いだ手から、しあわせ元気パワー。ちい兄ちゃんにも届け!だね。Yさんにもハグちゃんからもらったしあわせ元気パワー届けているよ。

 ハグちゃんはとても小さいけれど、一番大きなしあわせ元気パワーをくれるから。わたしは、そんなハグちゃんに時々甘え過ぎてしまうよ。疲れたときとか、感情があふれて、怒りたくなっちゃう。泣いちゃえばいいのに。上手に泣けなくて、おっぱいばかりほしがるハグちゃんに、「もう、おっぱいは出ないの!」とか言っちゃう。「泣きたくないの!」って私がいる。なんだか心にひどい悲しみがあるって、ぼんやりと気づいた。

 おっぱいぐずぐずのハグちゃんのこと、怒りたくなったり、ハグちゃんごと私の前から消しちゃいたくなったり…、そんな気持ちでいてもどこかでは、ハグちゃんがかわいくて、しあわせって所に帰っていきたくて、そんなしあわせが、私のいる場所だって。気がつくと、私の中にある、しあわせの実感が助けてくれていた。

 だから、わたしはもっとしあわせの実感を大きくして、心が道に迷ったとき、途方にくれたとき、悲しみいっぱいになってる私に、心の内側から、手を差し伸べられるぐらい、悲しみをひっぱって、しあわせへの道案内ができるぐらい、あったかいを増やさなきゃ。

 ハグちゃんに、心に残る悲しみを伝えてしまわないようにね、あとで、ゆっくり泣いてもらおう。よしよしして、だから、きっとだいじょうぶだよね。

 ハグちゃんが生まれてきてくれて助けてくれて、あったかいしあわせを私に教えてくれた。ずっと知らなくて、大きい兄ちゃんたちのことは上手に育てらなかったから、こんなしあわせあげられたらよかったって思って、何度も過去に戻ってる。

 Yさんがそんなしあわせがあるってこと、ずっとわたしに、教えてくれたから、だから、気づけたよ。そして、過去に戻らなくても今出来ることもあるんだってことも、だから、私はやっぱり今できることを探しながら、いまに、戻ってくる。

 感情のまんまで暮らしてる私に、実感したしあわせの助けを借りて、こっちだよって、少しずつ、みんなでしあわせになれるようにだね。しあわせって、「あったかい」と、「やわらかい」なんだって、誰かが言ってた。私はそれに、楽しくて、くすぐったくて、かわいくて、伝わりあって、うれしいが増えていく、と、付け足してみる。

 あのね、ひとりの人としてのハグちゃんを感じると、とても丁寧に、接することが出来るよ。小さいけれど、ハグちゃんなりの、気持ちや、想いや、そういうのが伝わって、私もひとりの人として、伝え返すと親子の可能性がもっと、広がっていくように思えたよ。この感覚も忘れたくない。お兄ちゃんたちのことも、そういうふうに感じてみます。

 手をつないでくれてありがとう。私からも、パワーを送っているね。みんなでしあわせになろうね。

 朝の小鳥がチチチチチって、鳴いているよ。小鳥の鳴き声が、外の景色を連れてきたみたいに、お日さまが出てて、青空がふわって広がって、いい気持ちだろうなって思ったよ。

 今日も、お母さん頑張ろう!

「速さをゆるめる」

 「赤ちゃん講座」に行けなかったことは、とても、残念だったけど、なんとなく、その時じゃなかったと、すんなりと受け入れられました。でもどこかでは絶対に行ける、会えるんだって想ってました。行きたいって気持ちが何度も私の中で騒ぐから、きっと私は、申し込むことになっていたんだって。変だけど、わたしは、そんな風に考えちゃうの。だから、あのとき電話できたことは、すごいことだし、Yさんの声を聞けたこともよかった。

 伝えたいことを、別の形で伝えられた、そんな気もして、なんだか、それは、それで、うれしい。言葉にはできないなにか、それを、どうにかして伝えようとしてると、近づいているみたいで、居心地が良くて、あったかくて、なんかいいの。

 子守唄が教えてくれたこと、Yさんが教えてくれたこと。ハグちゃんが教えてくれたこと。子守唄って、ゆっくりで、とてもハグちゃんを落ち着かせてくれるね。

 考えたら、護るって、ことは、囲うっていうことになんとなく似ているね(私自身、振り返ると、そこから、ずっと動けなかったような気がする)。それも、必要な時だってあるけど、生きていたら、辛いことだって悲しいことだって沢山あって、だんだん子どもが成長して、大きくなっていったら、護るってことだけでは、なんだか、成長したお兄ちゃんたちには対応できない感じがしたよ。

 どうしたいのか、どうしたらいいのか、自分に問いかけてみたら、親としては、子どもが生きている、それだけでいいと思った。そして、生きることは、何か大切なことを学んでいくことだと思う。だから、わたしは、辛さだって、苦しさだって、悲しさだって、無駄にはならないように、出来ていると、続きたい。

 だから、辛さや、苦しいこと、それらを排除するみたいに、籠って、生きていくわけにはいかないんだから、それはきっと、無理なんだから(籠ることを、否定してるんじゃなくてね、籠ることが必要なときだって、もちろんあるんだからね)。

 だから、わたしは、子どもがしあわせになるように、助ける。そうしたいと思った。確認したら、それなら、Yさんみたいになりたいって気持ちとも、ぴたっと合ってる。だって、Yさんは、いつも、みんながしあわせになるように助けているから。だから、それは、現実をなんとかするんじゃなくて、心に働きかけること、難しいけれど、私が助けてもらってるように、してみればいいと思ったから、自分を助けながらだけど。

 わたしはとても心の速度が早い世界で、生きているなあとまたまた気づかされました。それは、いつもどこか、違う場所に答えを探していたからかもしれません。外側ばかりみて、自分を見つめることをしてなかった。私の中にもちゃんと答えはあるんだから。

 Yさんがヒントをくれたから、ちょっと、心が(きっと小さいころに否定された傷ばかり)疼いて、気づくのもすぐにではなかったけれど、朝起きて、考えていたら、ハグちゃんに触れてもみたり、そしたら、やっと、私が感じるいいところに、戻れたので、忘れないうちに書いてみました。どうもありがとう。

 あのね、ハグちゃんが、おっぱいを飲むと、なんだか、涙まで、吸われるみたいに、泣きたくなるよ。くっつく安心。そして、伝わる気持もあるかも。抱っこがいいんだね。あったかさ、ハグちゃんからいっぱいもらっているね。

 あのね、パパはぞうさんの歌を、替え詩で、ハグちゃんに歌っているんだけど、「ハ~グちゃん、ハ~グちゃん、だ~れがしゅきなぁの あのねとうさんがしゅきなのよ~」にしているんだよ。それはいいなあと思って、とうさんのとこ、ママにして!とお願いしたら、歌ってくれた。うれしくなって聴いていたら、「ハ~グちゃんハ~グちゃんだれがしゅきなぁの あのね、かあさんはそ~のちゅぎよ~」と歌ったので、ちょっとガクっとしました…。

 Yさんも元気でいてください。