おとな心を立てる

私たちは心の中にあるいろんな気持ちにいつでも乗っ取られやすいのです。でも、そのことに気づいて、気持ちを抱え、導く、心の運転手とも言うべき「おとな心の親心」に気づくと、自分の気持ちをもてなすことも、子どもを育てるのも楽になります。

「気持ちをバッグにいれて」
「子ども心だとわかったら」
「新しい本を読んで」
「足下の落とし穴」
「私にとって『抱っこ法』って何だろう」
「コア探しのようなある日」
「○と・と大きな存在と」


 

「気持ちをバッグにいれて」

 すっかり春になりましたね。うちではもう夕方からカエルの大合唱がはじまりました。チューリップも咲いて、今コデマリのつぼみが膨らみ始めたところです。

 いつも気持の感じかたで、気持ちそのもの、じゃなくて、こういう気持ちになっちゃうんだよね、って感じようねって、言っていたでしょう? 最近、その感じが前より実感できてきたかも、って思います。

 私の場合はね、今こういう気持ちを持っているんだ、って思うと気分が楽になるみたい。気持は自分の持ち物、って思う感覚。だから、私はその気持ちを持つこともできるし、手放すこともできるんだ、そんな感覚。

 気持に乗っ取られる時もあるけど、感情は自分のバックにいれて持ち運んでいるようなイメージを持ち始めたら、なんだかいい感じです。今日はこんな気持ちと、こんな気持ち持ってるなあ、って。あれ、今日はずいぶん大きい気持ちが独占してるなあ、とか。バッグが重い時も、イメージしている、持ち手の私自身は、生き生きとした、エネルギー満タンの自分を常に想像しているのね(イメージしている本来の私、という感じかしら)。

 それで、この気持ちは、おろせるかな?まだ持っていたいのかな?とか問いかけると、意外と、手放せる気持もあったりして、余裕のあるときはそうやって遊んでます。

「子ども心だとわかったら」

 私の子ども心を主人が受け止めてくれて、私が主人の子ども心に気付き、受け止められるようになりました。

 主人は甘えん坊で寂しがりやさんで、娘が泣くと娘の方に駆け寄る私に、「自分の方を見て!」と言うのです。最初は冗談なのかと思っていたのですが、そう言ってるのは子ども心のようで、最近は娘に待ってもらって、主人の子ども心を抱きしめ、ヨシヨシしてあげてます。主人も長男なので、いろいろと我慢して育ったようです。

 今日、娘が抱っこで泣き始め40分ほど泣きました。年始に主人の実家に帰り、いろいろと我慢していたようです。主人の方の父母は娘が初孫なこともあって、とても可愛がってくれたのですが、横抱きにすると泣くので、ずっと4日間たて抱きで抱っこされており、泣きたくても泣けず苦しかったようです。お正月の間、泣かず、いわゆるいい子だなあと思っていたのですが、やっぱり我慢してたんだと思いました。娘の心に気付けて良かったです。

 ふと気付いたことなのですが、私自身がきつくなって、娘が心配してくれてるとき、「これは私自身のことで、時間がたてば、いつものお母さんに戻るからね」と語りかけてたときです。ふと、母の感情も母のもので、私のものではないんだと思いました、当たり前のことかもしれませんが、とても心が楽になりました。

 母はすぐに人のせいにする癖があり、姑との同居したくなかったといって、父にどうして同居しなきゃいけなかったの?と言ったりするのです。母も同意していたのですが…。

 母は子ども心に占領されてるんですね。私も随分いろいろ言われ、悲しい気持ちになったり、怒りをかんじたりしてました。が、母の中の子どもがいってるんだと思えるようになりあまり気にならなくなりました。以前はとてもショックで落ち込んでました。何故母はそんなことをいうのだろうって。今日も母の子ども心がでてきていたのですが、気付けず、受け止めれませんでした。一瞬悲しいという気持ちが現れ、おとな心を立ち上げれませんでした。

 母は私ができちゃった結婚をしたので、主人に私をとられたみたいで主人にやきもちをやいているのです。結婚前にゆっくりと私と過ごしたかったらしく、主人の悪口をいうのです。産後一ヶ月ほど聞かされたのです。同じことを何度も何度も話し、黙ってきくのですが母の気持ちは晴れません。つい最近まではとても辛く、聞きたくなかったのですが、子ども心がいってることが分かって気持ちが楽になりました。

 そういう悪口を聞く度に私は母に悪いことをしてしまったんだ。母の気持ちが治まるなら、母の為に何かしてあげなくちゃと思っており、母をこんな気持ちにさせた私自身に罪悪感がありました。

 自分のおとな心を立ち上げて、母の子ども心に気付けてよかったです。今まで、さんざん母の子ども心に振り回されてきたので、今度はしっかり受け止めたいと思います。きるでしょうか?

 早く、母のおとな心がたちあがりますように。立ち場が逆な気もしますが…。

 抱っこ法、本当に素敵ですね。抱っこ法にあえてよかったです。

「新しい本を読んで」

 新しい本を送って下さってありがとうございました。送っていただいた『魔法の子育てカウンセリング』は私の中の子ども心をより分りやすくしてくれました。自分の中の子どもと何度も対話しています。その子は私に色んなことを次から次へと話してきます。

 その晩は乗客と話していて大泣きでした。どのぐらい対話をしたのか、最後にその子が「私、見捨てられていたんだね」とつぶやいたんです。そしたら涙がスーっと引いて気持ちが安らいだんです。その子がしがみついていた手をスーッと離してゆったりと席についてくれました。

 あんなに見捨てられたくなかったのに、その為だったら何でもしてきたのに。でもその子が「見捨てられていたんだね」とつぶやいてから気づいたんです。母は子どもを見捨てるぐらいに辛かったのだろうと初めて感じました。それを感じてから母に対して感謝の言葉を言えたり、いたわり言葉がスーっと出てくるようになってきました。今でも私に傷つくような言葉を投げかけてしまう母。しかし母の中の乗客が暴れてるんだろう。と思えるようにもなってきました。

 まだまだ乗客の言葉に気づかずに、私も息子に八つ当たりしてしまうときもあります。少しずつですね。

 私が生まれた環境は私が望むような所ではなかったけれど、厳しい環境にも意味があり、そこから学ぶことも、これからはあると思います。これからも苦しいことは必ずあると思いますが、そこから少し学べたらいいなと思っています。

 最近息子に「またママ怒ったー」とか言われます。私は「今のは、小言っていうの。ママは明るく健康で小言の多い人を目指すんだっ」と言っています。今までは自分を責めては息子に謝ってばかりいたんですけど、あっけらかんとしている私の方が息子は良いみたいです。私は今まであっけらかんと笑った自分の記憶はないのです。不思議です。阿部先生の本にも書いてありましたが、DNAの中に眠っていたものが出てきているのかもしれません。

 『らくだの涙』の話は何度読んでも心が熱くなります。らくだの涙を始めて聞いた時、外されたくなかった私の鍵が音をたてるようにガチャガチャ外れてしまって、ガタガターっと体が崩れてしまいました。

 本当に素敵な本をありがとうございました。そして阿部先生、渡辺先生、鷲尾先生に出会えたことに感謝です。渡辺先生は私が心を閉ざそうとするのを、必死でこじ開けてくれました。鷲尾先生は母のような愛で私に体を張って下さいました。ありがとうございました。

PS.「今日も歯磨き出来ちゃった~!」って言っては、息子と掌タッチをしています。も~ホント当たり前のようなことでも「ヤッター!出来たー!!」って掌タッチをどんどんやってると、最後には「ママが出来たーー!!」って勘違いしちゃって。息子に便乗させてもらってます。

「足下の落とし穴」

 ときどき見るインターネットの占いで、何の占いか忘れてしまったけど気づいたことがありました。 人の気持ちを考えて、それをしょっている、それで疲れ果ててしまうんだということ。

 何かの集まりがあると、ぐったりと疲れてしまう私、そんな自分にうまくつきあうことができるようになりました。家に帰ってくると、疲れた私の気持ちを聞くようになりました。あれこれ、大したことないことにいちいち気にしている、そうなんだけど気持ちがゆらゆらして落ち着かなくなってしまうのです。

 それをよしよしするといい、ということに気が付きました。でもね、どうしてこうなっちゃうんだろう、気にしなければいいことなんだけどなぁ、と。

 そんな時に見た占いに、人の気持ちまで背負っている、ようなことが書いてあって、そうだ、私のことだと思いました。集まりで人と会うと、人の気持ちを考えてしまう。それは当たり前のことなんだけど、私はその人の気持ちまで自分の気持ちにも重ねてしまってそれで疲れてしまうんですね。人の気持ちを自分の気持ちと一緒にして、こう思っているかしら、傷つけてしまったかしら、と。相手がどう思っているかなんてわからないのにね。

 今朝、私の一言にいじけた息子(第三子)。あーもうやだ。言う言葉にも気を使わないと息子はこうやっていじけるんだから。来週から春休みなのに。毎日毎日こんなんだったら、もうやだ! でも、あの占いの話を思い出しました。

 そう、いじけてしまうのは息子の気持ち。それに寄り添うのは良いけど、その気持ちを私が抱えることはないんだ。息子が寄り添って欲しいときは寄り添って、その他は私は私でいいんだ。そう思ったら、鼻歌歌いながらパソコン開いたりして。その前に息子に「Aくんまたいじけてるんだ」と言っておいたから、いじけていることをわかっているよ、ということは伝わっているな。よしよし。普段通りにしていたら、いつまでもしつこくいじける息子がむくっと起きあがって、勉強の続きを始めました。

 あー、こんなに簡単なことなんだ。気持ちも、楽になるんだ。これだったら集まりで人に会っても、大丈夫かも。集まりがあるその前に、やだなぁと思ってドキドキしていたから、それが少しは緩和されるかなぁ。仕事をしたくて求人を見るけど、受けたい会社があっても、仕事のブランクもあるから、こんなおばさんではだめだろうなぁ。何の売りもないから、面接でしどろもどろだろうなぁと、会社の立場に立ってしまい、仕事をしたい気持ちがどこかにいってしまってました。

 長女に、「お父さんの気持ちはお父さんの気持ち、Yちゃんの気持ちと一緒にしちゃだめだよ」なんて言ってたのに。人の気持ちと自分の気持ちに線を引けてた、と思ってたのに。ただおしゃべりをしているだけの人との気持ちを抱えてたなんて。自分の足下に落とし穴があって、それを発見した、そんな感じです。

「私にとって『抱っこ法』って何だろう」

 抱っこ法のことを知りたがっているBさんに電話した。Yさんから抱っこ法の話を聞き、子どもが荒れたときに試みてみると、驚くほどおとなしくなったそうだ。そしてBさんは「やっぱり、こっちの気持ちがきちんと伝わるのよね」と言ったのだが、私はこの言葉がとても引っかかった。

 確かに、Bさんが「抱っこして真剣に話す」という、今までとは違う対応に子どもはBさんの気持ちが分かったかもしれない。でも、分かったからといって納得いくものだろうか、分かるからこそ、自分の気持ちを我慢することってあるんじゃないか。

 抱っこ法は「子どもを良い子にする方法」や「扱いやすくする方法」などというハウツーものと間違われやすいように私は思う。

 先日、旦那と喧嘩した。私がテレビを見ながら歯を磨いていると、旦那が歯を磨く音が気になると言い出したことから、「あっちいけ!」「何で私が行かなくちゃいけないのよ!」という口喧嘩になり、「U、お母さんともう寝よう」と子どもを連れて寝室に行った。 

 子どもに「お父さん、何であんな言い方するんだろう。歯を磨いていただけなのに・・・とブツブツ言っていると、「ちょっと待っててね」と子どもは旦那のいる部屋に走っていった。耳をダンボにしていると、「お父さん、お母さん(ゴニョゴニョ)なんだって」と何か言っている。その時、この子はこの子なりに、この状況を何とかしようとしているんだと思え、旦那とくだらないことで喧嘩して、子どもにこんな行動をとらせてしまったことを申し訳なく感じ、戻ってきた子どもに対し、「ごめんね。Uはお父さんのこともお母さんのことも好きなのに、好きな二人が喧嘩したら困っちゃうよね。本当にごめんね」と言うが、子どもはスッとそっぽを向いてしまった。

 その後何日か、子どもも少々落ち着きなく反抗的な感じで、私もモヤモヤしたまま過ごしてしまった。抱っこ法をしようと思っても、話が先に進まない感じなのだ。何回か試してみるうちに、フッと「今おかーちゃん、気持ちの中がモヤモヤして落ち着かないの。もうしばらくしたら元気になる予定だから、悪いけど気にしないでね」という言葉がでてきた。そうしたら私の中のモヤモヤしていたものがスッとなくなり、子どももその後、いつもの通りのUに戻った。

 私は子どもに対して、「嫌な思いをさせてしまって申し訳なかった」と言っていたのだが、これは子どもからみたら、「僕のせいでお母さんは嫌な気持ちになっている。僕がいなかったら、お母さんは喧嘩してもこんな気持ちにならなかった」とも受け取れる。つまり、「ごめんね、ごめんね」と言いながら、私のモヤモヤを子どもに押しつけていたのだ。だから、このモヤモヤは私のものなのだと、私がはっきり認識することによって、子どもは楽になり落ち着きを取り戻したのだと思う。無意識のうちに子どもに責任を転嫁していたとも言える。

 家庭でも保護者と保護される者、学校でも教える側と教わる側という二つの世界しか知らなかった私にとって、「誰かが私に何かする」「私が誰かに何かする」という物の見方や、育児には育てる側と育てられる側があり、私は育てる側の人間であるという観念がなかなか抜けない。

 抱っこ法の醍醐味は、この二つの境界がなくなることではないだろうか。子育てから子育ち、親育ちへと変化することが抱っこ法の本当の意味のように思える。今、目の前で起こっていることを手がかりに、親子一緒に、それぞれの気づきを得るというのが抱っこ法だと私は思う。

「コア探しのようなある日」

 メールありがとうございました。私の心の内が伝わったかのようなメールの内容に驚きました。「ああ・・・、大きな力が働いている。守られている。しっかり向き合っていったなら必ず道は拓ける」って思いが少し大きくなりました。今日は、芳子先生にメールをしようと思っていました。夕べ、私の中に嬉しい変化があったので、それを聴いてもらおうと思っていたのです。

 でも、芳子先生のメールを読んでさらに喜んでいたら、ずいぶん元気になっていたら・・・、ぽーんと、「だめ、だめ・・・、そんなに簡単に楽にはさせないよ」って重苦しい感じが広がってきてしまいました。「だめだよ。頑張れない私はだめなやつだよ」って声が大きくなってきました。
「えーっ、せっかく喜んでいたのに、ものすごい変化だって喜んでいたのに・・・、すぐに、そうやって引き戻そうとするんだから、もういい加減にしてよ」
「そうか、そうか、あのくらい言い分を聴いたくらいじゃ納得できないよね。それに、私は、あなたたちのこと悪者扱いしているものね。もっともっと、言い分を聴いてほしいよね。認めてほしいよね」
というわけで、まだまだ、積み重ねが必要。なんとか抱えていよう・・・ということになりました。

 さて、夕べの嬉しい体験を聴いて下さい。娘が学校に行かないことで騒ぐ気持ちも大きくなるし、それでも、家事はやらなければならないし。ひとりで、あくせくしていても夫は知らんぷり。娘は部屋にこもったまま。もう、気持ちはいっぱいいっぱいでした。

 階下に用事があって階段を降りていたら、泣きたくなってきました。仏様の前に座りました。どんな気持ちから始まったか忘れてしまいましたが、とにかく、仏様の前に座り、泣いていました。次から次と、言い分が出てきました。「助けてなんてもらえないよ。誰も助けてくれないよ。だって、誰にも助けてもらえずにひとりで頑張ってくるしかなかったもの」「人なんて信じられないよ」「頑張ってないとダメだよ。つまづいたらいけないよ。つまづいたら誰も相手にしてくれないよ」・・・・、母は病気のことでずいぶん肩身の狭い思いをしてきたこと、幼い私は、そんな母に元気になってもらいたくて、人に認められるように頑張って頑張ってきたこと・・・等など、次から次と、色々な思いが出てきました。時に、母に話しかけたり、時には、おとな心の私が、相づちをうったりしながら・・・。

 車の中で自分の気持ちを聴くのは、誰かくるかもしれないという気がかりがありましたが、家ならその心配もなく、安心して気持ちに浸れました。そんなことをしているうちに、「母ちゃんが大好きやった。だから、大好きな母ちゃんに笑っていたもらいたかった。だから、私は頑張ってきたんだ」という気持ちに出会いました。

 自分の母への大好きに気づいたら、娘の私への大好きにも気づきました。しっかりつながっている。娘には、何もかもお見通しって思いました。さらに、色々な言い分が出てきて、それを聴いているうちに、「人の真似はできないよ」って言葉が浮かんできました。「そうか、生い立ちも背負っているものも違うんだから、私は私なんだ。人の真似はできないよ」って思えたのでした。いつも自分のこと責めてばかりで、些細なことが気にかかって、人の顔色みておどおどしていて・・・。おおらかになれないし、バイタリティ溢れる感じで、あれこれと頑張れなくて、ただ、今ここにいることがやっとの私なんて、全然だめって気持ちに、知らず知らずのうちに乗っ取られていたことに気づきました。娘が学校に行けなくなって、慌てて、なかなかでーんと構えられなくて、そんな自分を責めて、そんなだから娘がいつまでも苦しいままなんだってさらに責めていた私でした。

 でも、自分の苦しい気持ちをよしよししながら、なんとか娘に寄り添おうとジタバタしている、それでいいじゃない。それが私なんだ・・・って思えました。ふと、気づくと、腰が立っていました。

 娘は、今日こそ行こうとしていたようです。今朝は、目覚ましがセットしてありました。かばんに今日の準備もしてあったようです。でも、行けませんでした。今の苦しい気持ちに寄り添っていられたらと思います。

 根気強く自分の気持ちを聴いていけたらいいです。

「○と・と大きな存在と」

 和く輪くだより届きましたよ。Sさんにも赤ちゃんができるといいなあとここ最近私もずっと心のどこかで思っていたので、Sさんの文章に出会ったときやっぱり繋がっているように思いました。まだ、出来ないこと、今はとても苦しいだろうけど、私もずっと待っていたいです。

 Sさんの赤ちゃんのこと、ハグちゃん(お腹の赤ちゃん)にお願いして、繋がって、早く来て下さいって、みんなあなたのこと待っているよって、楽しみにしてるよって、伝えてもらいますね。何度でも、来てくれたら、やっぱりうれしいもの。生まれたかった赤ちゃんは、やっぱりまだそばにいる気がするよ。

 あのね、関係ないようだけど(あるのかもしれないけど)、あのね、私の中と外にある小さな気持ち、そして大きな気持ち。小さな点に働きかける大きな丸のような感じのイメージがずっと私の中にあったよ。

・←○

「○は・に、こんなふうにすればいいよ」なんて、働きかけてる。だけど、その周りに存在してるずっと見えないぐらい、大きな存在がそれらすべてを包み込むようにしている。そのことが、見えたような気がしたよ。大き過ぎて姿は見えなくて、そこにあるっていう感じなんだけど。

 その存在は、大き過ぎて、これがダメ、あれがダメなんてことを全然云わずに、どんな風になっても、きっといい方に向かっていく、その可能性をいっぱい知っているっていうこと。そのことがわたしをとても安心にしてくれた。大きな存在は、きっと、いい時を知っている。

 うん、やっぱり、繋がった。だから、包まれながら、届けますっていうこと。

 チョコちゃん(ワンちゃん)は私に怒られてばかりで、かわいそうなんだけどね…。そのおかげか、子どもたちには最近怒ってないような気がします。怒っていても「大好き」という本心が見つけられていたら、そんなに苦しくはならないのかもしれませんよね。小さな点の気持ちでいるときは、忘れてるんだよね。

 長男の行事のことなんですけど、今年は、6年生で小学校最後の行事ばかりなんですよね。お腹のハグちゃんのことばかり考えてしまっていたけど、長男もいまを、今だけしかない長男で毎日生きてるんだから、もう少し母親らしい視線を送ってあげなきゃいけないなぁと気づかされました。

 子どもって大きくなるのが早いなぁと毎日見ていると変わらないようでいて、写真を見ると、やっぱり大きくなったなぁって感じます。

 私も母親らしい気持ちでいられるときって少ないけど、子どもみたいな気持ちのときは、怒ってばかりいて、可愛いと思う余裕さえ失っているときもあるけれど、それは、子どもたちが悪い子になっているんじゃなくて、わたしの視野が狭くなっていて、いろんな気持ちがうずいて、ただ満たされたくて、その思いが、自分本意な考え方しかできなくなって、してもらうことばかり考えているからだと思います。

 いてくれてうれしいって、そばにいて一緒に暮らしていたら、楽しいこといっぱいあるのに、しあわせな時間はいっぱいあるのに、それさえも味わえなくなっている。

 どんどん時間だけが過ぎていって、いつか満たされるときはいつも、どこか遠い場所に。

 そのどこか遠い場所を引き寄せられるのは、今を大切にする心だし、あるものを大切にして、ありがたいってことうことだって、気づいて、そのたびに軌道修正していくけれど、淋しさや悲しみやいろんな気持ちを知らずに貯めてしまうと、それだけがいっぱいになって、心が凝り固まってしまってる。

 優しくない気持ちばかりひとりで、家の中に広げて、自分が嫌いって思うときだって、そのまま、家族は私のそのままを何も云わずに、私だって至らないところ沢山たくさんあるけど、それをそのまま許してもらってるその感覚だけが私に残ってく。

 私が出来てないことをすんなりやってのけて、わたしは不器用にしか、そのお返しはできてないけれど。

 課題が山積みにあって、手がつけられない状況で、毎日そのガラクタを避けながら、なんとか日々をつないでいるけれど、なりたい自分とも家族の在り方ともほど遠いけど、今は、お互い逃げる心の居場所、長男は何かあるとすぐにゲームに逃げ込むし、次男はマンガ本にかじりついて、わたしは、もの思いにふけったり…さまざまな、気持ちを紛らわす方法を見つけては、向き合う気持ちから逃げているけれど…。それなのに、子どもたちがゲームとかしてると怒ったりしてるんです…。

 心が触れ合うのは、やっぱりまだまだ怖いから、自分ひとりで癒される方法を探っていくしか、出来ないけれど、言葉ではないところで気持ちが通じていくなら、ハグちゃんにも、いろんなひとに、言葉じゃないところで、大きな気持ちで、包み込むような気持ちが届いていくならいいなって思う。

 ・と○と、そしてなにか大きな存在につながる柔らかさを、私もいつも持っていたいと思うよ。

 進めなくなったときに、その空間を上に広げて乗り越えていくみたいに、いろんな方法があってもいいよね。

 私らしいってなっていくんなら、それはそれでOKだって、自分を好きになって、もっと人を好きになって、心配していることも、そしたら全部大丈夫ってなっていく。不可能はないみたいに思えてくるよ。

 だからね、出来ないことも、やれないこともいいの。どうしてもダメな気持ちはそのままでいいし、乗り越えられない気持ちもそのままで。

 いつかは、きっとだいじょうぶになっていく、それだけを信じて、今はいま自分ができる範囲で楽しむ。自分ができる範囲で自分をしあわせにしちゃう。

 思い残しはまだまだたくさんあって、拗ねたくなる気持ちだってあるけれど、その気持ちに気づいたら、そのたびにあなたは、どれほど小さいかってことを教えてあげる。教えてあげて、教えてあげるたびに私を大きくする。

 なんだかわくわくブログの文章をみたら、そんなことを思いました。そしたら、わたしは・の小さいままで暮していくんじゃなくて、大きさを呼び起こして、○にもその外にある広い空間にもなることが出来ますものね。

 そしたら、私らしさの象徴みたいに、小さな・だって、雨みたいに、時には空間を彩ってくれる素敵な模様になれますよね。わたしは雨とか雪とか粒粒したのはそれがなかったら、景色はもっと物足りないって思うぐらい大好きだから。