幼いときの思い残し・親への思い

「『寂しさ』に共感できた抱っこ」

 お忙しい日々をお過ごしだと思いますが、お変わりありませんか?
 半年来、ご無沙汰していました。無事、二人目を出産しました! 自宅に戻りバタバタしていました。久々の赤ちゃんはかわいい! 正直、こんなにかわいいものとは思いませんでした。

 そういえば、長男が生まれた時にも夢中になったな~、かわいかったな~、と思い出します。三歳になった今、なかなか難しいお年頃?ですから、赤ちゃんの頃がなおさら懐かしいです(笑)。今になって思い出すと、あまりにかわいくて泣けばすぐに抱っこ、泣きやむからすぐおっぱい。泣かないように泣かないように先手先手の先回りで育ててたんだな、と実感。泣いたと言えば、断乳の時で、1週間夜、泣いて泣いて、がんばってる姿に、「泣いていいよ、泣いていいよ、いくら泣いてもいいんだよ!」と毎晩抱っこして過ごした後、周りの友だちが「○○くん性格変わったね!」って言うくらいおおらかになってました。あの時に抱っこを知ってれば、泣ける芽をつまずにもっと泣かせてやれたのにな~。

 下の子がお腹に宿った時、幼稚園に入園する時、先生にご相談して送って頂いたメール、何度も読み返して息継ぎしました。ありがとうございました。相変わらず、振りだしに戻っては私が「ああ、またか!」と落ち込んで、葛藤葛藤してます。最近は、、「幼稚園行かない行かない」の一点張りで大変でした。

 出産以来、抱っこよりは、お父さんとケンカごっこしたり、私とはおもちゃで遊んだりと、「一緒に遊ぶ」ことで発散させていたつもりでしたが、よく考えるとほとんど泣いたことがなかったです。やっぱり、色々寂しいことや、我慢してることもあるんでしょうね。赤ちゃん抱っこすると「腕が痛いからやめて」だの「お腹が痛い」だの言ってましたが、「お母さん、○○が大好きなんだもん。抱っこさせてよ」って言うと大泣きして暴れてました。下の子が泣き出してしまったので、途中でやめて抱き抜くことはできませんでしが、翌日は幼稚園で初めて他の子と遊んで帰ってきました。

 下の子が出来てから気が付いたのですが、父親や私の実家の母と他の人にまざる時には、家でのイキイキしたままの長男なのに、私と家にいる時や、他の人とまざると表情が固まったり、なにかすごく緊張していたり、苦しそうだったり。そんな事が重なって、「私が母親じゃなかったら、この子はもっとのびのび育つかもしれないのに・・・」と落ち込みました。子どもに申し訳なくて。友だちの家なんかで内心苦しくて緊張して思うようにならない息子を見てると、それが手にとるように分かるのに、主人のように受け入れて上手く手を差し伸べてやることが出来ず、自分まで苦しくなってイライラしてしまうのです。
抱っこ、やっぱり小出し小出しで少しずつでもしていった方がいいですね。

 どんどん体が大きくなっていく息子を見てると今しかないなって気持ちもあります。体は大きくなっててもまだ三歳、きっといっぱい私に甘えたいでしょうね。自分自身が弟が来たときの強烈な寂しさを覚えています。しかも、全く親にそんなそぶりを見せなかったのだから、長男にはそんな思いは絶対させたくないと思って、妊娠中もかなり気をつけていました。今、家の中で「お母さん、お母さん」と言ってる長男。頭で分かってるのに、つい後回しにしてろくに目を合わせることもなく、そのくせ叱ってばっかりの自分がいます。

 でも、ふと生まれたての次男を見ると、長男が赤ちゃんだった頃を思い出し、あれ程、かわいがって来ておいて、今になって急に邪険にされて、長男はどんな気持ちでいるかと思います。先生、どんな風に受け止めてやればいいのでしょうか。

 今、きようだいそろって大の字になって眠っています。下が出来るとこんなにも上の子が大きく見えてしまうんですね。あまりにとりとめもないメールで申し訳ありません。


〈第2信〉
 こんばんは。先日は、あまりに苦しく、夢中で先生にメールを送りました。今読み返して、本当にまとまりのない内容で、途方に暮れていたとはいえ、失礼しました。先生の本も何度も読み返して、なんとか自力で、と思ったのですが、あの日はなにかがプチっと弾けてしまいました。

 今日、メールしたのは、改めて先生にご相談したいと思ったからです。前回のメールを送らせて頂いた翌日、自分の中でどうしても、という強い思いに動かされて抱っこをしました。おっぱいをやるときの横抱きにすると「痛い、痛い、お母さん、痛いよ、やめてよ」と暴れていました。そのうち、ふと、「泣かせて楽になりたいのは自分だな」と気づきました。

 自分が弟を迎えた時の強烈な寂しさ。親の前で、拗ねたり、泣いたりもせずそのままその寂しさを抱えて育ったことが一番辛かった。全てをそのせいにしてはいけないけど、今思っても学生時代、可笑しいほど、人とかかわるのが不安で、大きな波に揺られる小舟のように、いつも揺れてました。自分のことを責めてばかりで。だから我が子だけはそうせずに育てたい。希望と、「でも、そうなったらどうしよう」の不安と。いざ、下の子が出来てからは特に強く意識してきました。

 なのに、産まれて自宅に帰ってみれば、長男のことがとにかくイライラする。無性に気に障る。あれほどまでにかわいかった息子が、嫌だ!と思う瞬間が何度もあることに自分自身に腹が立って、怒っていました。

 本当は、自分の中の寂しさや怒りがうずいてたんでしょうか。抱っこをしながらそれにふと気が付いた時、次男が産まれてからの日がだーっと頭の中によみがえり、不思議な程、「あの時、あの時、あの時とか、長男はただ寂しかったんだろうな」と実感しました。自分がどんな時に寂しかったか、どんな風に受け止めてもらえたら良かったのか、抱っこしながらそう考えたら、無意識に長男に「寂しかったね。あの時も、あの時も。本当にただ寂しかったね。ごめんね」と言ってました。長男が「お母さ~ん、お母さ~ん」と何度も言いながらうわ~っと泣きました。私も泣きました。息子の名前を呼びながら。

 それで、どうなったか。今までの抱っこならすぐに「あれ、感じが違うな」って実感しました。でも、今回はまるでそれがないのです(笑)。抱っこが終わった後も、性懲りもなくすぐにイライラしてケンカしちゃったし。翌日が土曜日で朝から主人が仕事に出かけ、幼稚園はお休みで、親子三人で煮詰まって私、出産して最大級のドツボにハマッテ、それこそ昨日の抱っこはなんだったんだ!?というくらい長男に当たりっぱなし、すんでのところで「あんたなんか、大嫌い」って言ってしまいそうになりました・・・。

 もう止まらなくて、どうしようもなくて。このままじゃ、どうにかなってしまうんじゃないかと本気で怖かったです、自分が。そんな私といれば、感受性の強い長男のことです。お母さんは自分に対していつもイライラしている、と自分への自信、なくなってしまって当たり前のような気がします。なんとかしなくちゃ、と思います。自分の寂しさとごっちゃにしちゃいけないって分かっています。同じ思いはさせたくないって気持ちは今もあります。ただ、土曜も、日曜も、長男は主人のところで大声で泣いていました。どこかぶつけて痛いだの、なんだのと。多忙で家にほとんどいられない主人ですが、長男をしっかり受け止めてくれていました。これで、多少、発散できていたのでしょうか?

 先生、長男に自分を好きでいて欲しいです。自分への自信を持っていて欲しいです。そのために、私が今、一番気をつけて、していかなければならないことは何でしょうか。答えだけ求めてはいけないとは思いますが、せめて道しるべが頂ければ幸いです。ご多忙の先生にすがってばかりで、本当にすみません。でも、助けてください。


〈第3信〉
 日差しはきついですが、吹く風はすっかり秋を感じさせます。今日、なんだか日記のように、3通目のメールをさせて頂いています。ようやく、先生に嬉しい報告が出来ることがとても嬉しいです。

 先日来、ドツボにはまってご相談させて頂いてました。出来ることなら少し遠くに出向いてでも援助者の方にお願いしたい、と毎日思っていました。近くに援助者の方がいらっしゃらないのが残念で。そんな毎日に一筋の光が見えました。

 先日来、週末には主人のところでなんだかんだと泣き始めていた長男が、幼稚園の運動会の演習がありました。その場にいた友だちから、以前よりも活発に動いていると教えてもらい、私、泣いてしまいました。ただ、ありがたくて。

 一人っ子でこちらさえ我慢すれば長男をケアできた毎日には、どこかに「こんなにやってるのに」って気持ちが大きくありました。でも、きようだいができ、色んな葛藤があり、幼稚園の出だしも最悪でストレスもたくさんありましたが、長男もがんばってるんだって実感する今は、ちょっとしたことでも「すごい、がんばってるな~」って気持ちも出てきました。

 そして、長男の変わった理由はやっぱり抱っこを通して「寂しさ」に共感できたからでしょうか。あの日の抱っこがなかったら、あまりにイライラしていた私は頭で長男の寂しさは分かっていても、実感することは到底できなかったはずです。自分も泣いてしまったあの抱っこで何がどうなったのかは分かりませんが、お互い、どっかで慰められたのかもしれません。

 毎日、小舟のようにゆらゆらしていますが、抱っこを支えにまた少し進めそうです。先生、ありがとうございました。こうしてメールをできる人がいることで、救われてます。お忙しい先生に勝手なメールばかりで本当に申し訳ありませんでした。でも、抱っこのすごさ、また実感できました。

 次も嬉しい報告が続くといいな。

「小さい自分を褒めたよ」

 先日読んだ本で、なんて書いてあったのか忘れてしまったのですが、ふと、自分の小学3年生のことが思い出されました。お別れ会が開かれることになり、みんな何かの出し物をすることになりました。私は一人でリコーダーの演奏をしたのですが、私の演奏の後に先生が、「一人じゃなくて大勢の方がいい」というようなことを言いました。そしたら、次は同じ曲を何人かの人たちで演奏することになっていて、私はますますみじめな思いをした、という場面が思い出されました。

 その時にどう感じたのかはわからないのですが、今の私が推測するに、それをきっかけに、“一人でいるのはいけないこと、恥ずかしいこと、寂しいこと”と思ってしまったのではないかな、と。実際、4年生には休み時間をどうして過ごそうか悩んでいたことを覚えているし、一人で帰るのは変なこと、だから帰る方向は別なのに、昇降口を出て少し歩くところまで一緒に帰れる、唯一声を掛けられる子を誘っていました。

 それで、その3年生の時の自分に声を掛けてみることにしました。‘寂しいね’‘寂しかったね’と。でもね、しっくりこないの。お風呂でも声掛けてみたの。せっかく頑張ったリコーダーなのにね。ちょっと失敗したけど、だいたいうまくいったよね。あ、そうだよ、思い出した。

 お別れ会が開かれ、出し物をしなくてはいけないとき、私は誰かと一緒にしよう、とは思っていなく、特に一人でいることが恥ずかしいこととは思っていなく、何をしようかな、と自分で考え、そうだ、リコーダーが得意だからそれをやろう、そして習ったばっかりの曲をやろう、と思ったんだよ。ちょっと失敗したけど、終わった後はすがすがしかったんだよ。一人で考えて、胸がわくわくして、そしてどきどきして、すがすがしくなったんだよ。

 誰かと一緒じゃないとだめ、なんて考えなくて、一生懸命やったんだよ。そうだよ、私、すごいね。やったね。ちょっと失敗したけど、やったね! そうしたら、うれしくなってね、私ってすごいなぁと思った。やればできるし、やってたんだ。‘一人は寂しい’に縛られて、それからは何するにも自信なくしてたけど、自信持ってやれるんだ。

 小さいときのことを思い出すとき、どうしてもネガティブな気持ちがあるんじゃないかって思っていたけど、こういう、褒めて欲しかった気持ちもあったですね。あぁ、だから私は拗ねてしまったのかしら。“どうせ褒められないんだから、さ”なんてね。褒めてもらった小さな私は、にこにこしてたよ。

 早いものでもう6月。一年の半分、過ぎてしまいますね。それでは、また。

「ごめんね」

 先日は初めて癒しの抱っこを体験させて頂いて4日経ちますが、感動が消えません。本当に心から有り難うございます。子どものストレスの発散を上手にさせられる母になりたいというのがキッカケでしたが、思いもよらず、私が誰より発散させられ、それからの私は息子と同様に少し変わりました。

 私事ですが、私はひどい難産で母の両足首には切って輸血した跡が今も残っているほどです。その後、私は赤ちゃんの頃(0才から)近所の(全くの他人ですが)商店を開いている家によく預けられ3才ぐらいの時、何とか今日こそ実家で寝て欲しいと私の両親はオモチャを買ったりしたらしいのですが、泣いて頑として帰らないと言ったほどその家を好んでいたようです。

 小学校に入っても1年生の頃はそちらに帰ってしまっていたのを覚えています。その後、私は気管支喘息をしたり、体が弱く、何かの検査で入院した時麻酔をしたのですが、無理矢理やっと片目だけ開けて「心配かけてごめんね」と言ったのを覚えています。夜も喘息がひどいと眠れず咳き込みましたが、同室に眠る母は、家が漁師なのでひどく疲れている事が多いので咳をこらえる事もありました(でもこらえられるものではありませんが)。

 中学に入っても3つ上の姉、4つ上の兄はいわゆるその当時「つっぱり」で、母が泣くのを見ていた私は反発など出来ませんでした。本当に誕生の時から始まった親不孝をどう返せるのかとばかり考えていた様に思います。なのにうらはらに、今更反抗期の様に口を返してしまっております。

 私の中に屈折したような心の中に何か知れない曇りがいつもいつもありました。それはきっと自分の存在に対する罪悪感の様なものだったのだとこの間の抱っこからはっきりと感じられる様になりました。

 息子は「一緒に頑張ろう」と言うと、今まですぐ「歩けない、抱っこ」と言っていたのに「S頑張れる! 3歳だもん!」と言って歩いたり、何か頑張る力が増したのを感じます。

 そして私はほぼ初めて、主人に思う事をその場で言えたのです。今までは躊躇しながら結局時間が経ちすぎて言えなくなったり、言っても聞き流されるだけでお互いストレスになるだけだったりだったのです。すごい前進と、私の中ではかなりスッキリしています(主人の気持ちは戸惑いが先だと思いますが)。

 それから涙が出せる様になりました。今まで人前で涙が出ないたちで、一人だとマンガ本でも涙が出るのに、主人がいても泣けなかったのですが。Wさんに出会えて本当に嬉しいです。
また和く輪く舎のあの一室には不思議な気の様なものがあるのでしょうか。息子は眠っていましたが、何故か私は部屋に入るとすぐに胸があつくなったのです。すぐに涙が出そうでしたが“ガマン”してしまいました。息子も目を覚ますなり泣けた様ですし。

 ところで今日、息子がコップを間違って割ってしまったのですが「もういらない」とか言って「ごめんなさい」を頑として言いませんでした。なかなかこの一言が出せないままでしたので抱っこして「大切な言葉はありがとうとごめんだよ…」等と話しました所、しばらくして息子は「小さいSが言ってるんだけど『ごめんね』って、心の中だよ」と言うのです。思わず涙が出てしまい「嬉しくて涙出た」と言いながら、今まで言えなかった一言が3才の今、出て来たのが嬉しくて抱きしめてしまいました。

 長々と書いてしまいましたが、近いうちにまたお会いできる日を楽しみにしています。その時は宜しくお願いします。“しあわせ子育て通信”の体験も読ませて頂いてWさんのあたたかさ、娘さんの素敵さがとても伝わり感動いたしました。

 心から抱っこをして心を繋ぐこの充実感、素晴らしさに出会えた事に感謝しています。少し肌寒くなって来ましたが、どうぞお体にお気を付けて下さい。

「気持ちに気づいたら」

 ご無沙汰しております。先月、今月とセッションに伺えず残念に思っております。

 仕事も産休をいただくおかげで、それまで仕方ないとあきらめて、引き継ぎの準備をしているところです。12月以降は、仕事も辞めてしまうので、その後は子連れでいろいろな研修会に参加したいなと楽しみにしています。

 先月、気が沈みがちでイライラしていて、子どもが眠った後、メソメソ・グズグズしていたら、娘が起きてきて、「みんな、お母さんのこと心配しているんだよ」と泣き始めました。しかし、私としては、その言葉の意味を素直にありがたく受け取るよりも、「ほっといてよ!」という気分だったのです。

 けれど自分のせいで悲しい思いをさせてしまっているという思いはあって、そばにいただけですが、娘の泣きに付き合っていました。娘は、さんざん「お母さんのこと、お父さんのこともお兄ちゃんも私も心配してんの」といって泣いた後は、スッキリしたようすで一人で遊び始めました。

 夫が帰宅したので、娘の寝かしつけを頼み、一人でドライブにでました。家では大声で泣けないし、とにかく泣くでも叫ぶでも、思いきり吐き出したい気分だったからです。

 しばらく、大声で泣いてみましたが、それよりも、“私寂しかったんだ。夫に対しても母に対しても。なにかをしてほしかったんじゃなく、寂しいと伝えられない、伝えなかったことが悲しいんだ”と、気づいたことが、なぜか気持ちを落ち着かせたというか、スッキリしたというか、そんな気分になれて、家に帰ることができました。

 気づいただけで落ち着くなんて意外でした。これは、抱っこ法とは少し違うかもしれませんが、自分の気持ちを感じた時間だったのだと思いました。こうした時間が度々持てれば、突然、大爆発して、怒りまくることはなくなるのでしょうね。

 また、娘も、私がグズクズしていようがいまいが、自分の気持ちに気づいて出せたら、スッキリして遊び始めたんだと理解できました。

 すみません。とりとめもなくだらだらと書いてしまいました。だんだんと寒さが増しています。どうぞご自愛ください。実りの秋に、研修会に参加されるみなさんにとって、実り多い研修会になることを祈っております。

「そろそろ(抱っこ)かな…?」

 阿部先生へ
 素敵な絵ハガキありがとうございました。二重に入会してしまったので、来年分として、お取り扱い下さい。お手数をおかけして申し訳ありませんでした。

 近頃の子どもたちは、休む事も殆どなく元気に小学校、保育園へ行っています。上の子(Mくん)は、毎日自分の身の回り事、学校の支度、お家の手伝いと、こんなに…?!と思うほど頑張っているので「そろそろ(抱っこ)かな…?」と思う時に抱きつくと、案の定ギャーギャー泣いて嫌がったり、抱っこを受け入れるフリをして体と体に隙間をつくったりと、とてもわかり易くてかわいいです。ただ保育園の時とは違い、学校でどんな事があったのか…などを詳しくは分からないので、「何かあったんだね」と漠然としか受け入れてあげられませんが、これからもっともっと親元を離れて行くことを考えると、仕方ないかも知れない…と思い、少し淋しい気持ちです。ただ、今のところたまに抱っこをすると、わりと言い当てているのか(は分かりませんが…)その後はとても落ち着いたMくんに戻るので一安心です。

 下の子(Kちゃん)の方は、抱っこをしてもなかなか気持ちを言い当てる事が出来ず、いつも「的外れだよー」と言うように遠い目で、心ここにあらずといった様な表情で抱かれています。私も言い当てることも出来ず、何に共感したらいいのかも分からず、でもいつもふと思うのは、「今の事じゃなくて、Kちゃんが産まれてくる前の時からさかのぼって、必要とされて愛されて産まれてきたと話して、Kちゃんの存在を認めてあげるところからやり直さないとダメじゃないかな、何故なら、私自身自分が産まれてきた意味をずっとわからずにいたから…」と、そんな事でした。

 少し前に「二人に逢うためにママも産まれてきた。だから産まれて良かったよ」と言ったら、自分自身の誰にも認めてもらえなかった存在を少し自分で認めてあげられた気持ちになりました。上の子は寝ているフリをしていましたが、下の子は私をぎゅーっっと抱きしめてくれました。この二人の子育てを通して、自分の子ども時代の隙間を埋めていくんだという基本をまた思い出したようでした。

 その次の朝だったか、下の子が「今日も僕泣きたいから苦しい抱っこして」と言ったのにはとても驚きました。「抱っこの先生やだー」と大泣きしていたのにも関わらず、4才にして心に触れてもらい、抱っこしてもらう心地良さを言葉で言えるなんてすごいなーと思いました。

 まだまだ私の心が小さいので共感できない部分もありますが、子どもに癒され励まされながら、二人の子どもの心を大切に育ててあげたいと思っております。

 “遠い目をするKちゃんの心を探しに、また夏に予約を入れさせて頂きたく思っております。その時は鷲尾先生をはじめ、阿部先生、スタッフの先生方の御指導を頂きたく思います。宜しくお願いします。

「“わからない”は気持ち?」

〈第1信〉

 私、母に対して、
「どうして教えてくれなかったの、何も教えてもらってないからわからなくて、どうしていいのかわからないんだよ」
と思うのです。

 何かに躓いて立ち止まって考えるとき、“わからない”が出てきます。「わからなかったから、教えてもらわなかったから、今こうして生きるのにもがいている」と。もしあの時教えてもらっていたら、同じ人生だとしても、もっと前向きに、楽に生きていけたのに…と。

 図書館に予約してあった絵本を読みました。タイトルは『こころ』(大月書店)といい、香山リカさんが書いた本です。その本は、心がどういうもので、傷つくとどうなるのか、といったことが書かれてあります。

 私は、『みずいろのこびん』(岩崎書店)を読んだときに思ったのですが、子どもの頃自分の気持ちを感じることがありませんでした。楽しいや悲しいや苦しいやおもしろいなど、感じていたのは確かなのですが、寄り添ってみる、でしょうか、苦しい自分の気持ちに寄り添い認めてきたことはなかったように思います。ないものとしてきたから、今こうして悩んでいるんだと思います。だから自分の気持ちを知ったようちゃんはすごいなぁと思いました。

 この『こころ』に書かれている子も、自分の気持ちや友だちの気持ちに気づきます。私はそんなことあったのかなぁと思います。だから今、自分の子どもたちに「気持ち」の話をたくさんするようにしているんだと思いました。私のように苦しくならないように。「気持ち」の存在を知っていれば、その対処法を知っていれば、躓いても苦しくなっても、大丈夫なんじゃないかなと思っています。

 私が母に、「どうして教えてくれなかったの」は、きっと気持ちの存在や気持ちの寄り添い方を教えてもらわなかったから出てくるんだと思います。今の自分の気持ちがわからなくなるのも、自分の気持ちと向き合ってこなかったからだと思います。

 この“わからない”は結構やっかいで、なんだか気持ちがむずむずするとき、どんな感じなのか探ってみても“わからない”時があり、そうなるとどうしていいのか“”わからなく”なり、あーあ、とがっかりします。情けなくなります。でも、それは仕方ないことなんだと思い、そのうちにわかってくるだろうと思うようにしています。

 そう、こんな、気持ちのわからない、気づかないことってあるのでしょうか。“わからない”気持ちってあるのかなぁ。


〈第2信〉

 昨日、久しぶりに自分の気持ちに寄り添いました。長女の受験から気持ちが落ち着かなくて、寄り添おうとしても寄り添えなかったので、こんな日がくるだろうと思っていましたが、‘いらいら’ちゃんがやってきました。

 今年は長女と次女が学校が変わるし、息子もクラス替えがあるので、心配の種がたーくさんあります。次女なんか「中学校楽しみ」と大騒ぎしているのに、それでも心配なんだから仕方ないですね。あ、きっと私自身が学校が苦手だったから、小さい私が出てきたのかな、と思いました。

 私がつまづいた原因と思っているのは、高校時代。その高校生に長女がなります。長女の高校生に、自分の姿を重ね、少しでも高校時代の気持ちをわかることができればいいなぁと思っています。もっとどきどきするかな、と思ったけど、今はそうでもないです。これからか?

 私は友だちがなかなかできなくて寂しかったのに、長女は、高校のオリエンテーションで後ろの女の子に話しかけられ、途中まで一緒に帰ってきた、と言ってうれしそうにしていたから。この様子だと、この心配はないのかなと。

 そうか、自分の気持ちにフォーカスすればいいのかと思いました。私は友だちが出来なくてさみしかった…。ううん、なんだか違うなぁ? そりゃ、友だちがいなくて寂しかったのは事実。でもこの入学の前はそんなことは感じていなかった気がする。そう、とまどったの。長女のオリエンテーションでも感じたのですが、『○○高校生として~』という、重圧?みたいのが苦しかったの。それなりの進学校、周りからも『お~』と言われるようなキチンとした高校生になるように…とかなんとか。

「あ~私こういうの苦手」

 そして進学校に行きながら、大学進学をまったく考えていなかった私には、勉強の話に、ついていけなかったんじゃないかな、と思いました。「大学に進学するためにはこういう勉強をしなさい」のような。私は、家の近所の商業高校に行きたかったの。父が事務所を開いていて、一階が事務所、二階が自宅、という生活環境で、時々事務所で遊んでいました。

 そこの事務員さんがステキで、私は「事務員さん」になりたいと思っていました。だから商業高校に行きたかったのに、この成績ならこちらの学校がいいよ、なんて誰が言ったのでしょうか。洋裁をしている母も、商業高校の夏の制服は透けるからやめなさいなんて言って、私も何も考えず、普通高校にしたのでした。だから、大学に進学するなんてひとつも考えていない私に、大学進学の話はわからないし、興味もなかったんでしょうね。そういう学校に来てしまったことに気づき、ショックを受けたのでしょうか。

 それでね、こういう時、私はどうしたのかなと思いました。今の私だったら気持ちに寄り添えるのに、あの時の私は‘気持ち’をわからなかったから、寄り添えないまま、「なんだ、この気持ち」と思うこともないまま、虚無感を漂わせて生活していたのでした。あ~、こんな時母が気持ちのことを教えてくれたら…。と、ここで“わからない気持ち”で出てきた、お母さんが気持ちのことを教えてくれたらよかったのにが出てきました。

 わお、つながった。

 ここからどうしたらいいのかしら。私も、“わからない気持ち”をYさんに投げかけたものの、どうしたらいいのか、わからないのです。ホントに、深いところに行きすぎてしまったのかなと思いました。少し早かったのかもしれないなぁと。

 でも、みずいろのこびんと、私の空洞と、つながるんじゃないかなと感じています。まだまだかかりそうだけど…。

 でもね、私、商業高校にそんなに行きたかったんだ、とびっくりしました。今もなんだか「事務員募集」に惹かれてしまうのはそのせいかしら。それに、長女が高校を決めるときに、「大学に行かないのならこの高校に行かない方がいい」と何気なく言っていたんですよね。

 でもね、普通高校に行っても、初めはショック受けても、もし気持ちに寄り添えていたら、高校三年間を無駄に過ごすことはなかったと思います。 進学先は大学でなくても、高校生活を楽しめなかったのはどうしてなんだろう。そこか、問題は…。


〈第3信〉

 「商業高校に行きたかった。事務員になりたかった。」は欲求のような気がします。なんかこのことを知ったとき、元気が出てきたの。もう高校生ではないし就職する予定もないのですが、自分も目標ができたような、そんな‘元気’が出たの。なんだろうね、商業高校に行く事なんて不可能なのに、欲求だと思いました。不可能で、もう行くこともできない事実を実感すると…うーん、今の私は、「高校時代は何の目標もなくつらい時だった」と思っていたけど、「目標ができた」になったから、不可能でもがっかりはしていない。欲求だから、わくわくしてるのかな。うーん。

 感じたことがたくさんあるんだけど…。集約するとYさんがいてくれる安心感って、本当に大事だなぁと思いました。私は、誰かがいてくれる安心感を味わった記憶がないような気がします。だから「わからない」時に不安を感じてどうしていいのかわからなくなって、でくの坊のようにじっとしていた方が安全、という感じになってしまう。あ、Yさんがいてくれるんだ、そう思っただけで前に進めると思いました。

 安心感は、心の奥に踏み込んで心配してくれる、という人がいることだと思いました。母は、心の奥には来てくれなかった。もっと私の心に寄り添ってくれればうれしかったし、「心が成長」するんじゃないかな、と思いました。

 小学校で新しいことが初まります。「チャレンジ△△」(‘△△’は学校の名前)と言って、例えば「朝起きたら家族とあいさつします」「履き物はきちんとそろえます」とか、あたりまえのことなんだけど今の人たちって出来ない人が多いですよね。これをきっかけに出来るようになってもらいたいのと、子どもと親の会話を増やして欲しいそうです。出来ないことを叱るのではなく、どうしてできなかったか、とかどうすればできるようになる、とか、もう少し簡単な目標にしよう、とかそういう話し合いをして欲しいのだと思います。チャレンジ項目は子どもと親で決めるそうです。

 私ね、こういう話し合いが母となかったような気がするの。出来ないなら出来ないまま、出来たら出来たまま…。そこに、出来ないならどうしようか、出来たらすごいね、ということがなかったような。出来る・出来ないじゃなく、その過程で親子がどうやってかかわってきたか、それが大事で、「心の成長」になるんじゃないかな、と思いました。私はこれが欲しい。

「ささいな口げんかから」

 Wさん、こんにちは、先日は暑中見舞いありがとうございました。また、お返事も出さずに申し訳ございません。

 今日は、セッションをはじめて受けた日から、今までに起きた気持ちの変化についてお話ししたいと思います。

 私の家族はY(現在6才)、H(もうすぐ4才)、と夫です。初めてセッションを受けた時は、Yが2才、Hは7~8ヶ月の頃だったと思います。下の子が産まれたことによって、Yの様子がおかしいと心配で受けたセッションでしたが、Wさんの「あなたはお母さんのことどう思っているの?」という問いと、私の「大嫌いだ」という答えに対して、「そうなのね。でも、心の底ではお母さんへの深い愛が脈々と流れているのよ」の言葉がいつまでもいつまでも、抜けない棘のように、私の心に残ったのでした。

 はじめその言葉に反発し、「私はもうおとなで母は必要ないし、嫌いだから」と、わざと母に冷たくしたりしたものでした。しかし、ある出来事をきっかけにその気持ちは劇的に変わっていきました。

 それはささいな口げんかから始まりました。
 ある日の電話で、義父母がお菓子をご飯の直前に食べさせてばかりいて困るという話をすると、母は、そんなこと、かわいがってくれるんだから文句をいうんじゃないと言うのです。どう考えても、お昼の12時前や、夜の5時6時にお菓子を食べさせる方が悪いのに、私ではなく義父母の肩を持つのに頭に来てしまって、もういい!と電話をがちゃんと切ってしまいました。

 それからは、「ああ、母を怒らせてしまった…。もう嫌われてしまった…」という気持と、「もう私には夫も子どももいる。母は嫌いだし、関係ない」という気持で鬱々と過ごしていました。母からは2度と連絡はないに違いないと思っていた1週間後のこと、母から電話がありました。「お中元が届いたよ、ありがとう」という電話で、いつもと変わらぬ声で話してくれました。

 私は安堵の気持でいっぱいになり、「じゃあね」と母が言った時に、「お母さん、この前は電話を怒って切ってしまってごめんね」と言ったのでした。すると母は「ううん、この前はお母さんが悪かったよ。あなたはちょっと愚痴を言って甘えたかっただけなのに、わかってあげなくてごめんね」と言ってくれたのです。なんとか別れの言葉を言って電話を切った後は、子どもたちの前で号泣していました。

 これまで生きてきて、母が謝ってくれたのは初めてだったし、これほどまでにうれしい出来事はありませんでした。こんなにも私は「母に認めてもらいたい!」と思っていたことに気づかされました。そして、「ほんとうはこんなにも母を好きだった」と。これもみんなWさんの、「心の底ではお母さんへの深い愛が脈々と流れているのよ」と言ってくれた言葉のおかげです。ほんとうにありがとうございました(もう何度も何度もこの話はしているのですが、また思い出して書きながら泣いてしまいました)。

 それからも少しずつですが、母と私の関係は改善されています。まだ言えないこともたくさんあるのですが、あの頃の私からすると考えられないぐらいの変わり様です。

 母のことは嫌いだったというと、そう、嫌いだったのと受け止めてくれました。小さい頃は怒られてばっかりで、愛されているという実感が全くなかった、ということも話すことができました。母はとても驚いていて、私がそんなふうに思っているとは夢にも思っていなかったそうです。かわいくてかわいくて、愛情いっぱい、他の人の200%も思って手をかけて育てたんだよと言っていました。しかしそれは私も今は母となり、子どもに怒ってばかりですが、愛がない訳ではないということがよくわかります。

 もっと私のことを好きだと言って欲しかったということも、伝えられました。私の言葉に初めはとても驚いていた母ですが、しばらくすると(何週間とかです)、「お母さんもそういうふうに育てられたから、同じようにしか育てられなかったんだと思う。厳しくしつけられて、好きだなんて言われたことは一回もなかったから、おまえ達に対して、好きだなんて言うことは思いもつかなかったんだと思うよ」と母の方から言ってくれました。

 今では「美月のことが大好きだよ。遠くに離れていても幸せをいつも願っているよ」と、事あるごとに言ってくれます。戦争や母の死(母の母は中学の時に亡くなっています)で苦労した母のことを思うと、私はなんて贅沢なんだろう、愚痴を聞いてくれるお母さんがいないなんて、お母さんは可哀想だと思うと伝えると母は泣いていました。

 先月、天心に初めて参加した後は、少しだけ余裕が出来たのかしばらくはうまく子どもに接していたのですが、また戻ってきてしまいました。3歩進んで、2.7歩ぐらい戻ってしまった感じです。明日は2回目の天心です。何か新しい発見があるといいなと思っています。

 それでは、長々と読みにくい文章ですみませんでした。またお会いできることを願っています。

「私にぶつけてきた、ただそれだけ」

〈第1信〉

 この間、「あぁ、母は私だから文句言っているんだ」と思えました。だから、私も母に文句を言っていいんだ、と思いました。認知症で失語症で言葉は発することはできないけど、母に文句を言ったりいやなことがあったらため息ついたりしていいんだ、と思いました。

 いままで母に気を遣って文句を言ったことがなかったんですね。心の中では文句を言ってたけど。“お母さんに文句言ってもいいんだ”と繰り返し思っていたら、自分は母に随分と気を遣っていたなぁと思いました。自分の気持ちを押し殺して体裁を装うことが身に付いているんですね。それが解放されたような気がしました。

 いつものように母の所から帰るとき、「それじゃまた来るからね」と言うと「ふん」と返されたのです。前にもそのようなときはあったのですが、その日はなぜだかぐさっと来ました。「ふん」かぁ。私は一生懸命母のことを考えているのに、母は私のそんな気持ちをわかってくれようともしないで自分勝手にしている…でしょうか。それに、母はやっぱり呆けてしまったことが悲しいと思うのです。そんな母をホームに預け、たまに顔を出すくらいで帰っていく、そんな自分にそれなりに満足している私…私のやっていることはただの自己満足でしかなかったのではないか、と。母の気持ちを考えたら、私の自己満足はエゴでしかない…。それでその日は泣いて泣いて…。

 そんな暗い日を送っていたら、母の東京の友だちから電話が来ました。時々電話で近況をお知らせしています。そしたら、こんな私の話はしていなかったのですが、その方が「親孝行だよね」と言ってくださったのです。前にもそういう感じの話はしていたのですが、その日はとってもうれしくて、母の代わりに慰めてもらったような、認めてもらったような気がしました。

 その後、ふっと、母は、私だから「ふん」と言ったのではないか、と思ったのです。娘の私だから、ちょっと愚痴をこぼしたくなったのではないかな。

 私ね、よく癒しの子育てで、「お母さんのこと大好きなんだけどきらい」と言ってみたり、「ギュッとしてもらいたいんだけど、おばあちゃんにしてもらう」という話がありますよね。それが、よくわからなかったの。わかるんだけど、私がそうされたらまともに落ち込む、と思いました。そんなこと、絶対にだめだ、と。

 それが、今回のことで少しわかりました。こういうことなのか…と。そうしたらね、今まで母にされてきたいろんなこと、無視されたり嫌みいわれたりしたことが、娘に私にやっていたことで、私が嫌いだから、憎たらしいからやっていたわけじゃないと思いました。

 母がそれなりに苦しい気持ちで生活していたことは理解していたつもりだったし、その矛先が私、というのも仕方のないことだとわかっているつもりでした。でも私としては、私がかわいくないからだ、とどうしても思ってしまいますよね。その部分が、そうじゃないんじゃないか、と思ったのです。

 私は私で大丈夫で生きてきて良かった、ただ母は苦しい気持ちをどうしていいかわからなくて、私にぶけてきた、ただそれだけなんですよね、本当は。

 そうしたらね、本当にオセロゲームのようですよね。今までの私は、いいんだ、あんなことこんなこと、いっぱい自分のせいにしてきたけど、そんなに責めることないんだ、とくるっくるっと駒が白くなっていくのね。うわぁ、すごい。

 あぁ、今はここまで。後はどう書いていいかわからなくなってしまいました。


〈第2信〉

 この間また母の所に行ったのですが、少し機嫌がよくない感じでした。それでもいつものようにしていたのですが、お昼の膳を片づけたら怒り出してしまいました。私が行くのは昼過ぎで、いつも食事が終わらずに一人で食べています。食べる、といってももううまく食べられないので私が口に運びます。スタッフの人に手伝ってもらってある程度食べたようだし、茶碗をいじり始めたから片づけた方がいいかな、と思って片づけたのでした。

 母は飲み物が入ったコップをギュッと握りしめ、こぼさんばかりの勢いです。手に、怒りがたまっているようで、私はコップと手を引きはがし、母の手を握りました。「怒っていいよ、私を叩いていいよ」といいながら。それで怒りが収まるはずもなく、スタッフの人もバナナを持ってきてくれたりごめんね、と言ってくれたり。

 自然に私は、「私が悪いんだから私を怒っていいよ」と言っていました。そしたら、なんだか悲しくなってきて。母の怒りが収まらないからか、怒った母のことはあまり好きになれないからなのか…。

 それでもなんとか落ち着いてきたし、その日はその後出掛ける予定があったので帰ることにしました。その日は「またくるね」に、「ダメ」と言われました。なので、そっと帰ってきました。

 お風呂で、その時のことを思い返していました。私がどうして悲しくなってしまったのかなぁって。「私が悪いんだから」にくると涙が出てきました。ああ…母の機嫌が悪いと、どうして怒っているのか全くわからなくて、困っている私がいました。そのSちゃんはお母さんが怒っているのはいやだから、自分が何か悪いことをしたんだろうと考えたのでしょうね。どんな悪いことを私がしたのかわからないけど、自分が悪いと思うと納得したのでしょうね。そして何が悪かったのかわからないまま、不安な気持ちでいたのでしょうね。

 うまく書けるかわからないけど、Sちゃんは気持ちを味わうことができなかったんじゃないかな。つらい気持ちを味わうことを避けていたのもあると思うけど。それを今味わうことが大事なんだなと思います。Sちゃんが味わうことがなかった気持ち、なんだかわからなかったという気持ち、それを確認することが大事なんじゃないかなって。

 これはこの間書いた、オセロの駒のようにクルッと白になったのとはまた違うような感じがします。どこかで繋がるとは思うけど。

 今回は、今もだけど涙がたっくさん出ます。人と接することが怖いのも、人に気を遣いすぎてしまうのも、ここから来てるのかな、と思います。たっくさん泣くといいんだと思います。

 先週の梅雨のような天気から、今週は晴れの天気が続くようです。本当に今日はいい天気です。今、お布団を干してきました。

「愛ってすごい!!」

 『あけましておめでとうございます。和く輪く舎の皆様 芳子先生、今年も宜しくお願いします!』

 今年は雪が多いです。11月の半ばくらいまで暖かくて外で遊んでいたかと思えば、12月に入ったら急に大雪!!これも温暖化の影響みたいですね。これ以上災害や事故がありませんように・・・。

 先日はFAXありがとうございました!!「上手くやれていますよ。いいんですよそれで・・・。と言われるだけで安心してうれしくなります。

 私、2人目を妊娠しました!!とってもうれしいです。Mのことを考えると可愛そうになったり、不安に思うこともいっぱいあります。けどやっぱり幸せなことなので、頑張っていきます。まだ5週目なので無理はできず、張ったり痛みがあったりするので、「安静に・・・」と言われてしまい、実家にきています。毎日、Mはばーばと出かけて行きます。もちろん赤ちゃんができて、ママはムリができないこと、でも、ママは今までどおりMが大好きなことは伝えました。

 頑張りやさんのMは、元気に出かけて行きます。帰ってくるとママに反抗しまくりで(笑)言ことは全く聞きません。多少頭にきますが、私は抱っこ法を知っているので、大丈夫です。知らなかったら、だんだんママになつかなくなる子を、かわいいと思えなかったり、パパっ子になったようにみえたり、ばーばっ子になったように見えたりするので、にくたらしくなったり淋しくなったりするのでしょうね・・・・。私はたまに淋しくもなりますが、大丈夫です。抱っこ法に出逢えていて、本当に良かったです。

 母ともいろんな話ができます。こないだも、私が赤ちゃんの頃は「抱っこしていないと、紫色になって泣く」とか、「後追いがひどくてたいへんだった。だから、首が座るまでは本当に大変だった・・・・」という話を母が言うので、私は疑問に思い、「妊娠中なにかあった??」と聞きました。母は、困った顔をしてそして答えにくそうに・・・、「やっぱりうれしくなかったんだよね。上の子は1歳半でまだまだ大変だし、まだ早いよな~・・・って思ったんだ」て言いました。かなりひどいですよね!! また言われちゃいました。「姉のついでに育った」とか数々ひどいことを言われてきましたが、「うれしくない」と言われるとは!?後であやまってくれましたが。姉は、他動性?!と思うくらい、予想もつかないことをする人だったので、私のことを心配してる余裕はなく、必死で守っていたみたいです。

 私も母のお腹の中で必死でしがみ付いていたんですかね・・・。でも抱っこ法の言葉を思い出せました。
母「うれしくない。と思ってしまうほど、私は苦しい」
母「うれしくない。と思ってしまうほど、私は大変で余裕がない」
ですよね!!私も、母に↑を伝えて、「精一杯だったんだよね」・・・って言えました。私ってすごい!!(笑)

 毎日酔っ払って、母や子をたたいたり、大暴れする父。もちろん何もしないどころか子どもたちより手がかかる。警察から何度も電話がかかってきたり、お給料は落として帰ってきたり(昔は手渡しだったので)、せっかく寝かせつけた子どもたちを起してなぐったり、母は必死で私たちを守ろうとしていました。3才で死に別れた父のお母さんのことを思い出し、母は父のことも守ってあげよう・・・と思ったのでした。愛ってすごい!! 母の愛の中で、父は初めてダダをこねられていたんですかね??

 ここまでは別の日に書いたものです。その後、今もつわりがひどくなり大変ですが(毎日くじけそうです)、母も、Mも、パパも、みんながんばってくれているので、私があきらめるわけにはいかないですね。では又落ちついたら書きますね。今年も宜しくお願いします!!新年の挨拶が遅くなってすみません!!

「母への思いが、今、少しずつ…」

〈第1信〉

 こんばんは。暖かくなってきて、春も近いのかなぁ、と思わせる天気ですね。
 この前の抱っこ以来、ここ数日、Yは元気です! よく笑うし、いやいやも言うし、なんか見てて、本当に元気なんです。相変わらず、「抱っこ、抱っこ」は言いますが、トイレでも、お片づけでも「ママと一緒に」と言うと、すんなりやってくれる。オムツ替えにあんなに苦労して、泣いて、イライラしてた私は何だったんだろう、と思うくらいです。

 でも、それもいい経験だったし、Yと以前より気持ちが通い合えているような気がします。私もまたAさんにいろいろ聞いていただいて、なんか母に対してとがった気持ちがなくなったというか、少し気持ちが丸くなっています。実は金曜日に母から電話があり、また水曜に喧嘩したときと変わらぬようなことを言われたのですが、(まぁ、そうはいっても、すべてが本心じゃないのかも・・・)なんて、少し楽観的に思えて、電話を切った後も、いつもはくやしくて涙が出てくるけど、金曜はそんなふうにならなかった。Yも心配そうな顔してたので、「大丈夫だよ、本当はおばあちゃんもママとYのことが大好きなんだよ」と言ってみました。

 AさんにYの抱っこをお願いした最初の時かなぁ、Yが病気で入院したのは、「あんたのせいだ」と母に言われて、もう私はつらくてつらくて、その話をAさんにしたときに泣いてしまったんですが、そのときAさんが私の肩に両手を当てて、支えてくれたんですよね・・・。もう、それが、本当に安心したというか、温かかったんです。私もわりと歯止めがかかっているタイプですし、人見知りも結構するし、初対面の人は緊張したりするんですけど、ああいう風に受け止めてもらえて、本当にうれしかったです。今までこの話、したことなかったですけど・・・。それにいつも、Aさんは私たちを否定することなく全部受け止めてくれますよね。それが今の私にどれだけ支えになっているかわかりません。

 私も妊娠7ヶ月になりました。お兄ちゃんになることがさみしくない、素敵なことだって、いっつもママはYのそばにいて、それは赤ちゃんが産まれても変わらないよって、Yに伝えつつ、お腹の子にも「楽しみに待っているからね!」と話し掛けつつ、出産までの日々を過ごしていきたいと思っています。(こんなんでいいのかな?)


〈第2信〉

 こんばんは。ご無沙汰しております。いかがお過ごしですか?

 私は早いもので、8ヶ月に入りました。この前メールをしてからかれこれ一か月くらい経ちましたが、結構、いろんなことがあったんですよー。

 抱っこのあと、すぐに「和く輪くだより」が送られてきて、Hさんの記事を読みました。その中にお父さんへの思いがつづられていて、「私を癒して成長させるのはもうあなたではなく、大人になった私の役目である」という一文がありました。私も、母とのことでいろいろ悩んでいるときでしたが、これを読んで、私もそろそろ母のせいにばかりしてないで、自分で自分を癒さないとなぁ、なんて思い始めたんです。その頃からでしょうか・・・、Yの泣きが始まったんです。夕飯の支度をしようかと思う、夕方4時過ぎくらいから決まってぐずりだし、1時間は泣くという日々が続きました。物は投げるし、かんしゃくって感じでした。私も最初はやはりイライラして、こんな忙しいときにって、思っていたんですけど、泣けないよりはいいかって、よしよししていました。でも気持ちはぜんぜん聞いてあげれてなかったです。自分のイライラを押さえるのが精一杯でした。

 でもふと、「Yは私の母への気持ちの変化に気づいてこんなことするのかな」って思って、聞いてあげるんじゃなくて、私も一緒に泣いて、私が楽になればいいのかな、と思い、ある時、横抱きは最近きついので、後ろから抱え込んで、「ママはもう大丈夫だよ、Yと一緒にもっともっと幸せになるんだよ」なんて言いながら、1時間くらい一緒に泣きました。そうしたら、いつもと違って、なんか甘えるような泣き方になり、いつも不完全燃焼で終わっていたのが、その日はけろっとおもちゃで遊びだして、それからは夕方に泣かなくなりました。「抱っこ、抱っこ」と前ほど言わなくなりましたし。でも私がちょっと口うるさく怒ったりすると、すぐ「抱っこ!」と甘えてきます。なんかわかりやすいですよね。私も以前よりYの気持ち、わかるようになった気がします。

 母とも仲直りしましたよ。お産のとき、Yの世話もしてほしいので、この前、家に泊りがけで来てもらって、家事などいろいろ手伝ってもらいました。これでお腹の赤ちゃんも安心して出てこられるかな。

 ではまた何かあったら、メールしますね。お天気が不安定ですので、体調など崩されませんように。


〈第3信〉

 こんばんは。
 木曜日はありがとうございました。私もYもまたいっぱい聞いていただいて、素敵な時間を過ごせました。

 今日、赤ちゃんの検診に行ってきました。結果は、今回は「異常なし」でした!もう、よかったです!ほっとしました。前回はたまたま、胃にガスなど溜まっていただけのことのようです。Yにも心配をかけてしまったし、もし障害があったらどうしようと、そればかり考えてた1週間だったので、お腹の子にも心配かけてしまいました。もしそうだったら育てる自信がない・・・、とまで考えて、さぞかし、怖いママだと思っていることでしょう。あー、後悔です。でも今までYのことばかりで、お腹の子にかまってあげていなかったが、これを機に、今までより話し掛けが多くなりました。出産までもっともっと大事に思ってあげたいと思います。

 Yは、Aさんに聞いてもらって、落ち着き、気が緩んだのか、昨日から鼻水と咳がでて、風邪をひいてます。赤ちゃんも私ももう大丈夫だから、今度は僕がちょっと心配かけても大丈夫かな、なんて思っているのでしょうか?

 帰りのバスの中で、Aさんが「みんな自分の母親の気持ちをどこかに持って子育てしてる」って言っていた話をずっと考えていました。私の母も確かに私があんまり寄り付かなくて、さみしかっただろうなって。もっと一緒にいたかったのかなって。以前、母と仲が悪かったときは、「私が育てられたようにはYを育てたくない」と、反面教師にして、必死に、Yに人一倍愛情を注いできたんですが、本当はそうではなくて、母のもっと私と一緒にいたかったという気持ちが、そうさせているのかなって思いました。温泉で義父にYを連れて行かれたような気がして、その後もずっとYにあたるほど気持ちが落ちつかなかったのは、そのせいかなと思うと、なんかすごいですね。その話を聞いて、これからはもっと母と仲良くできそうな気がします。

 それに「私が育てられたようにはYを育てたくない」と思っていたときは、抱っこでもYの気持ちを聞こう聞こうと必死になっていたし、ダダこねされても自分に余裕がなくて聞けないと、聞けない自分にイライラしていたし・・・。でもこれからはもう少し余裕ができるかなと思っています。

 出産まではもう伺えないかもしれませんが、またメールなどで近況報告しますね。ではお忙しいと思いますが、お身体大切になさってくださいね。

「母との夢のような出来事」

 和く輪く舎のスタッフのみなさん、いつもお世話になり、ありがとうがざいます。先日、Iさんにお話しした通り、母とのすばらしい(?)関わりがありましたのでお知らせします。

 先日、私は長い間かかっていなった喘息に久しぶりにかかってしまい、子どもも二人(6才と2才)いるので母に手伝いに来てもらっていましたが、何かと文句をつけていました。特に姉からの電話に対して病気の私をかばうわけでもなく「お姉ちゃんの言う通りにすればいいじゃない」の一言。その言葉で怒りは何故か頂点に達し(病気のせいもあるのでしょう)、今まで、母に言わずにいた心の中のわだかまり-恨みと言った方が近いかも-をものすごい勢いで、わめいていました。母は私の方を見ず、黙ってすわって、最後に「そんな文句ばっかり言うのなら、明日帰るから」と言いました。

 次の日の朝、母は一言も口をきかず、帰りじたくをして「帰るから」と一言いい、玄関を出ようとしました。その時私は、何故かここで帰したらいけないと直感し、思わぬ行動を起こしていました。「私から逃げるの?」と言う私に、「そんな前のこと言われたらお母さんいられない」と言う母の荷物のひもを持って離しませんでした。両手でひもを持ちながら、今まで、母が悲しむから、怒るから、どうせ私の気持ちを受け止めてくれないだろうから、そうすると余計に悲しくなるから、といった理由で言えなかったことを、次々に話していました。案の定、母は「しょうがないじゃない」。私が「謝って」と言っても、決して謝らない母。

 それでも、かなり思い切って文句を言ったせいでしょうか、心の中のわだかまりを言葉にして、一番言いたかった相手にぶつけて少し楽になったせいでしょうか。母の事も話せる様になって、
「お母さんも自分のお母さんに謝ってもらったことないのはわかるけど」
「お母さんが謝る事ができないのはよく知ってる。子どもなんだから」
「もうとっくに許しているんだよ、だけど…」
と言っていました。そのうち、母の顔がぱっと違う顔になっていて少しびっくりしました。私は楽になった顔だと思いました。でも、まだ帰ると言っているので、そこに座ってもらいました。すると、何だかお母さんの手に触ってみたくなって、気づくと手を握って、もう片方の手はお母さんの背中にやって、
「お母さんも大変だったでしょう。いっぱい我慢してきたんでしょ? 泣いていいんだよ」
と繰り返し言っていました。母も少し泣いていましたが、やはり長年我慢してきた涙は気持ちよく流れません。でも一言「悪かったよ」と言ってくれました。それを聞いた途端、私は母の膝で子どものように大泣きし始め、「ごめんなさい」と何度も言っていました。
 
 今考えると夢の様な出来事です。全て自然に出た行動なので、自分でもびっくりしています。ただ、手を握って背中に手をやった時は、これで心に届くという確信がありました。それは今まで和く輪く舎でお世話になって、体のふれあいは言葉以上にという事を身体で知ったおかげです。そして、自分が楽になると周りの人も楽にしてあげられると教わった通り、私が心のわだかまりをはき出して少し楽になり、母も少し楽になり、更に私もとお互いに癒せる事ができました。

 この出来事の後、これまでと二人共変わらない態度でしたが、二度目にうちに来た時は、母は前よりテキパキ動き、どこか自信を持った様な感じがしました。
 そして、自分の父親と母親の話をしてくれました。やはり、よい思い出ではなかったけど、最後に「でも、お父さんが死ぬ時、私の事を心配してたらしいよ」と言う母の言葉を聞いて、自然に涙がこぼれてきました。
 
 和く輪く舎に出会って4年半、いろいろなことがありました。一時は、抱っこ法の方法論に陥り、それを実践することばかり考え、主人にもそれを押しつけていました。しかし、押しつけると主人はそれから逃げていき、私はイラ立ちを感じていました。そんな時、いつも有村さんが「今はまだダメなの、でもあきらめないで」と何度も言ってくれました。おかげで、私は私、主人は主人と考えられるようになりました。

 今では「癒しの時代」とか「泣きたい現象」という言葉をTVで耳にすると、私が「ほらね、私なんて5年も前から(ちょっと多めに言っている)和く輪く舎で泣いてるもんね、時代の先端を行ってるね。ワインブームもそうだったしね。でもね、そろそろがんばる時代だよ。だって、私、ちょっとがんばってみようかなって思ってるもんね」と得意げに言うと、「そうだよな、ジョージアのCMも癒し系から浜ちゃん(ダウンタウン)のがんばろうみたいなCMに変わったもんなー」と主人。そんな会話ができるようになりました。
 
 私の周りにいてくれる主人と子どもたち、そしてその家族を信じるということを気づかせてくれたAさん、Iさん、和く輪く舎のスタッフのみなさんに感謝しています。またそれを忘れてしまったときはまたお世話になります。

 実は書きもらしたことがあります。姉からの電話の内容ですが、「入院すればよかったじゃない」というもので、発病して3、4日たち、ある程度症状も落ちついていたので、「今さらしょうがない」と言ってもこちらが納得するまで、ひつっこく言ってきました。手紙の最初には、病気のせいで怒ったように書いたけど、他にも理由があります。私が小学生の頃、母が1ヶ月ほど入院した事があって父が単身赴任のため、親戚の家に預けられた事があったのです。その時のいやな思いが、気づかないうちよみがえって、頑なに入院だけは絶対いやと思っていたのでしょう。

 しかし、あの母との一件があったあと電話の内容を思い出すと、少し私の答えが違っていました。「確かに入院するのが一番よかったと思うよ。でも、それがわかっていても私は入院をしなかったと思うよ」
 このことは、手紙を書き終えた時どうしても伝えたくなりました。前後してすみません。

「私の中にぐちゃぐちゃが」

〈第1信〉

 こんにちは。先週はありがとうございました。久しぶりの抱っこでいささか緊張していました。あれからR(3歳)は、なぜかとっても幸せそうで、この一週間ずっと幸せそうにしています。なんだかうれしそうだし。私がかまってあげる時間が増えたわけではないのですが、なぜ??? 一人遊びも集中しているし、抱っこをねだって私が抱き上げたりするととってもうれしそうに笑っているんです。不思議・・。

 私はといえば、これもまたなんだか幸せそうで、疲れて時間がないのはまったく変わらないのに、夕食をちゃんと作っていたり、Rがぐずったりダダをこねてもあまりいやになったりしないで大目にみてあげられるし、いらいらしないし。二人でなんだからくになったような気がするのです。

 なぜ?? 私にはわかっているような、わからないような・・。

 私の抱っこはどうしても体が固まってしまい、芳子先生のひざに横になってもどうしても体の力を抜けない自分がいるのを感じていました。肩、ひざ、肘、部分的に力が入っているのを感じる時もありました。自分の体の体重でさえ重力に逆らって浮かせようとまでしていました。重たいんじゃないかな、痛くないかな、と思ったりして、気持ちもゆったりとはいかなく、ちょっとした居心地の悪さをかんじていました。寄りかかれない自分を感じて悲しくなってしまいました。

 私の中にぐちゃぐちゃがあるという指摘は新しい視点でした。最近そんなこと考えてみたこともありませんでした。でもそれがすっと胸に入ってきました。得心がいったというか、ほっとした気持ちでした。でも「そんなもの私の中にいない」「いや、あっちへいって」というのは正直な気持ちでした。人形を胸にのせられたときはぞっとするほど気味が悪い人形に思えました。その人形たちが私の中の一体なんなのかはわかりませんが、確かに私の中に何かいるのだなあ、それもいくつかいるのだなあと思うようになりました。今おもえば、そのことはとても大事なことだったように思います。きっと今のらくに生活ができるようになったひとつの要因におもいます。

 Rがちっとも寝ない、これでは寝不足になってしまう。私は一生懸命やっているのにちっともRは私に協力して早く寝てくれない、私も自分の時間がほしいのに。自分の時間で何をするかっていえば、本を読んだり楽器をひいたり、テレビをみたり音楽を聴いたり。自分の事ばっかり考えてRと遊んであげたり、子どもとの時間をとらない私はダメな母親だ・・。

 自分の正直な気持ちを吐き出してちょっとすっきりしたのと同時に、阿部先生の適切なあいづちにうながされ、「Rも自分を責め、私も自分を責め、自分のことを楽しめないほど人形たちが邪魔をしている」という構図を、外から見ることができたように思います。

 特に「子どものことを思ったら、私なんか幸せになってはいけない」の「子ども」を、○○○に変えて一番ぴったりくる言葉は?といわれたのは絶妙な質問だったと思いました。それでちょっと思い出したのです。一年くらい前だったか、天心や研修にかよっていた頃、何かのきっかけで私は、「楽しい人付き合いや、何かうれしいことから自分から遠ざかってしまう自分」に気がついたことがあったのです。何か仲間でおしゃべりしていても、楽しくなってくると居心地が悪くなってきて、自らその場を離れてしまったりするのです。「わたしって幸せから逃げてる気がする」と思った瞬間があったのです。それを思い出していました。

 その○○○は「母」かもしれません。母は苦労した人で、子どもの頃から甘えたことなどない人でした。私にも甘えさせてくれたりはしなかった(できなかった)と、私も小さい頃から思っていたし、今でも甘えさせることに関しては厳しい人です。

 実際、私の中の人形のひとつは、「母のことを思ったら自分なんか幸せになってはいけない」なのか、「甘えたいのに甘えられなかった心残り」なのかよくわかりませんが、そこら辺に何か私の人形の一部がいることは感じました。母は甘えられない人だった。私もそんな母に甘えられなかった。甘えたかったなあ、としみじみおもいました。Rも同じなんだろうか・・。私が自分を大切にしていかないとRだって私に甘えられないなあ。それどころか私を何とか幸せにしようと子どもながら苦しんでいるようだ・・・と、Rが泣き叫ぶのをみていておもいました。

 「子どもが母を幸せにするなんて到底無理」と言われたそのとき、なぜか「え~!無理なんだぁ・・・」と心底落胆した気持ちを感じました。私は母を幸せにしようなどと思ったことはないと思っていたのに。私も母を幸せにしようと一生懸命思っていたのだろうか・・。

 はっきりとしたことはわかりませんが、自分の中に色々な思いを感じることができました。私にとってそれはとても大切なことだったのだと思います。阿部先生の、「楽だっていうことと幸せだってことはまったく違うこと」という言葉は胸に響きました。しばらく研修から遠ざかっていた私に、抱っこ法的精神を思い出させる言葉でした。

 また、先ほど幸せな気持ちになった、楽に生活している気がすると書きましたが、もうひとつはっきりしてきた思いがあったのです。それは研修から帰ってきて「さみしいなあ」、ってしみじみ感じたことです。そんなふうに感じることなんて、すごく当たり前のことなのになあ・・今まで気がついたこともなかった、と思いました。

 実は、和く輪く舎に行く一週間くらい前から寝室のCDラジカセがこわれてしまって、音楽の聴けない生活をしていたのですが、特に夜寝る前に音楽が聞けなくて、寝苦しい思いをしていました。音楽を味わうことで寂しさのよりどころにしていたのかもしれません。「音楽のない生活なんてさみしくってしかたがない」と自覚するようになりなした。

 私が抱っこのとき「心配なこと」のひとつに、真っ先に「Rが寝てくれないんです」という事が出てきたのは、夜寝るときに音楽がきけない、さみしい気持ちを癒すことができなくて、私がつらかったのかもしれないなあと思いました。帰ってきてそんな思いに気がついて、さっそくCDラジカセを入手しましたよ。好きな音楽やクラシックや中国の壮大な音楽をきいてやっとほっとして、Rの寝ない理由がなんとなくわかったように思いました。

 今回は私にとってもRにとっても、とてもすばらしい体験をさせていただき、ありがとうございました。感じたことを忘れず、抱っこに研修に励みたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。


〈第2信〉

 こんにちは。いつもお世話になっております。
 あれから少し進展があったのですよ、ほんの少しですが。母がRのお迎えを行ってくれたとき、私も実家に子どもを迎えに行くと、えんえんとおしゃべりしてしまうんです。いつも。早くRを寝せたいはずなのに、母とおしゃべり(けっこう他愛もないおしゃべり)をしてるんです。それで、昨日思ったんですよ、これってただのストレス解消だと思っていたけど、もうちょっと深い意味があったって。

 わたしアパートでは日常会話できる人がいないんだなあ、って思ったんです。Rの心配事や仕事のぐち、日常生活の大変ぶり、自分の生い立ちやいま考えていること、何がしたいとか将来のこと、などなど話すことなんてた~くさんあるんです。それが、アパートに帰ってきてRと二人だとそれができないんですよね。「母」としての私にしかならないわけで、その部分に、気がつかなかったけどひずみがあったんだなあ、と思いました。

 実家に帰ってはひたすらしゃべったりしていて、なあんだ、私って母に甘えてるんじゃん、母はそれを知ってて受け止めてくれているんだ、と気がつきました。あまり他人に自分の事を話さないので、母がこうやって話相手になってくれてるのは、とても幸せなことだと思いました。

 もちろん、母がやってきた子育てを含めて、そうした話が母と私との間でできるようになったのは、私も母もそれなりに乗り越えてきたからでしょうけど、「あ~・・わたしって母に甘えてるんじゃん」と気がついたのは新しい発見でした。

 そしたら、うちで「母」になりきれないからといって、自分を責めることもないし、なんか物足りなかったりさみしくっても、ああ、当然、しょうがないじゃん、うちでは誰とも私「○○○○」個人として話しのできる相手がいないんだもーん。って少し自分を許せる気がしました。

 母と話しているうちにそんな発見もあって話してみたりして、「なあんだ、しょうがないんだ」と腑に落ちた気がしました。

 あーまたひとつ楽になった気がしました。

 子どもが今までは「赤ちゃん」の部類だったから、私もひたすら「母」としてやってきた。でも身長もグッと伸び、「児童」の顔つきになってきたからこそ、わたしも改めて、「母」だけでないだだの私「○○○○」でもいられるようになった。もちろんまだ「母」でもありますけど。本来の「自分」を見る機会が多くなって、なんだか自分自身戸惑っているのかもしれません。

 またどうぞよろしくお願いいたします。

「厳しい母に育てられた私が母になり」

 12月に出産し、現在、我が家の息子Mは3ヶ月半になります。とても厳しい母に育てられた私は、妊娠中、自分がきちんと子どもと向かい合っていけるのかどうか本当に不安でいっぱいでした。

 幼い頃から自分でも何故なのかよく分からなかったのですが私はとても嘘つきでした。それで、よく母には布団たたきやハンガーなどで殴られ、母に反抗する年齢になってくると、今度は父に動けなくなるほど蹴りまくられたものでした。…かといって、私の両親に愛情がなかったのかというとそうではなく、私が本が好きだったので、母はクリスマスに名作のシリーズを30冊くらいプレゼントしてくれたり、やりたいと言った習い事は何でもやらせてくれましたし、父も、普段は冗談ばかり言っていてよく遊んでくれました。

 それでも、母は、私と相性が合わなかったのもあったのでしょうね、物心ついたころから私と日常会話を交わすことは全くなくなり、妹と母が会話しているところへ私が話しかけると、とたんに黙り込んで完全に無視してしまう、という状況でした。毎日食事の時に母がしょうゆを取ろうと手を伸ばすと、殴られると勘違いしてびくっとよけてしまうような生活。

 中学くらいから今度は私の家庭内暴力が始まり、何度母を殴ったか覚えてないくらいです。家中の皿や家具を壊し、窓を割り、学校へ行かなくなり、それで余計に父に殴られるようになりました。

 社会人になって実家を離れて東京で暮らすようになると、母との関係はとても良くなりましたが、結婚して一度私の両親と同居したのですが、また大げんかの毎日。それで実家を出て、賃貸マンションで生活するようになりました。距離が離れると、また母とはうまくいくようになりました。

 ところが、昨年、妊娠してからです。もともとひどいアトピーだった私は、当然ひどい状態になりました。母は、異常なくらい、生まれてくる孫がアトピーにならないようにと私には母乳で育てるな、ミルクにしておけとしつこく言い、出産予定日間近になったころ、母乳で育てたかった私はある時大爆発してしまいました。そこで、昔のことが一度に甦ってきてしまったんです。

 私が小さい頃から年がら年中かさかさの肌でいたものですから母はいつも、「粉が落ちるからそっちの部屋へは入るな」「あんたが入った後のトイレは粉がいっぱい落ちていて汚い」「色が黒いから何を着せても似合わない」と、とにかくけなされてきたことばかりがそのときにどっと思い出されてきたんです。何時間も号泣し、泣きやもうと思っても泣きやむことができず、可哀想に母も、「Nちゃんがそんなにコンプレックスに感じていたとは知らなかった」と、自分の子育てに改めてショックを受けていたようでした。

 結局、出産後すぐに私が体調を崩してしまい、赤ちゃんとは隔離された状態で退院を迎えました。私の体に注射や飲み薬はどうしても必要で、はじめからミルクで育てることになって。なんだかしょっぱなから母として何もかも失格だったような気になって、そうとう落ち込み続けました。そして、母といつまでも喧嘩を続けていた私が、家庭内暴力まで起こして自分の感情をいまだにセーブできないような私が、どうやって母として子育てしていけるのか、と不安のなかでもがいていたような感じでした。

 そしてある時ふと、再び「抱っこ法」の本を読んでみる気になりました。また、並行してインターネットで「相談実例」を見て全部プリントアウトして少しずつ読みました。読みながら泣いて、泣きながらまた読みました。なんとなく、心にかかっていた雨雲がふわあっと消えていきました。自信がつくところまでは当然いかないけれど、なんとなく私にも子育てができそう、って気になりました。

 それからずっと、何かあるたび赤ちゃんのMに語り掛けるようになりました。まだいまだにベビーカーを使用していないので、駐車場まで抱っこして歩きながら、「青い車が停まってるね。これはちょっと変わった色の青だね」とか、そんなささいなこともぶつぶつ話しかけながら、「いや~、ママ鼻水が出てきた~。Mに見られちゃった~」なんて、くだらないことも話しかけながら、「ごめんね、今ママお仕事の電話してたから、泣いてるのにすぐ来てあげられなかったね」なんてことも話しかけながら。

 そうやって毎日毎日過ごしていると、周りの友だちが言っていたような、「子どもとふたりだけで家にいると息がつまるよ~」なんて感じが全然ないんです。話し相手がいない、って気がしないんですよね。だって実際、話し相手はいるんですから。

 最近ではMの方も、「ゴー、ゴー」って表情も豊かに話すようになってきたのでなおさらです。何を言っているのか分からない時の方が当然多いんですけれど、何かあったときは表情も真剣な面もちになってきて、3ヶ月の赤ちゃんが、眉間にしわをよせて必死で話すんです。「抱っこ法」を読んでいなければ、きっと全然気付かなかった部分だろうな、って思います。

 そしてこの間、実家へ行った時のことです。2~3日おきにしょっちゅう行っている実家なのに、その日は実家へ着いて目をさましたとたんに、Mが大泣きしはじめたんです。抱いても何しても大泣きするMに(そんなことは生まれて初めて)、私の両親はおろおろ。

 私には、ふと、思い当たることがありました。
 その何日か前に実家に行った日、私の母が童謡のレコードを聞かせたんですね。そしたら、コーラスになった部分で怖かったのか、Mがうわっと泣いたんです。それがこの実家での最後の記憶になっていたものですから、きっとそのことを思い出したんだろう、と思って。それで、「この間来た時レコードで怖い思いをしたから、それを思い出したんだよ」と両親に言いましたが、「まだ3ヶ月の赤ちゃんでそんなことがあるはずがない」と言われ、私の両親は抱いてメリーを動かしてあやしてみたり、あっちこっちへ歩き回ってみたりしていましたが、一瞬泣きやんでもまたすぐ大泣きする、ということの繰り返し。

 私の両親にはちょっと可哀想でしたが、「ごめん、ちょっと抱かせといて」とMを預かって、「ごめんね、この間レコード怖かったんだよね」「ママもあのレコードは怖かったから、しまっちゃったよ」「もうあの大きな声の歌はどこにも出てこないよ」「怖くなくなるまでいっぱい泣いていいよ」「怖くなくなるまでママがずっと抱いててあげるからね」と話しかけながら、2~30分ほど抱いていました。すると、ある時点でぴたっと泣きやみ、その後は嘘のようにごきげんに。そのあとはもうずっと帰るまで、よく笑ってよくしゃべり、じじばばは大いに満足して喜んでいました。その後、実家へ行って泣くことはありません。

 本当にそのレコードが理由だったのかは定かではありませんが、もともと夜泣きもなく病院などに診察へ行ってもおりこうにしている子だったので、初めて抱かれたままあんなに大泣きしているMを見ていて、「もしも抱っこ法を全然知らずにいたら、泣きやまないわが子を見てイライラしちゃってたかもな」って、そう思いました。「抱っこ法」を読んでいたからこそ、その原因が果たして正解だったかどうかはともかく、3ヶ月の赤ちゃんが泣くのにもきっと何か理由がある、と分かっていたので、必要以上の不安やショックを感じなくてすんだんですね。

 自分の感情がコントロールできるかどうか本当に不安だった私なので、「抱っこ法」と出逢えたことはものすごく大きな出来事でした。

 赤ちゃんが泣いたり、また少し大きくなってからダダをこねたり、そういうことが必要なことなんだって知らなかったらどうなっていたんだろう、って思います。先日、『「大好き」を伝えあう子育て』と『ダダこね育ちのすすめ』も、本屋さんに取り寄せをお願いしてきたところです。

 これからもきっと想像出来ないくらいいろんな壁にぶちあたりながら、子どもと向き合っていくんだろうな、って思います。でも、子どもが泣くことを恐れないでいられることは、私のような人間にはとても嬉しいことです。何も知らないまま子育てに向かっていたら、毎日「あんまり泣かないでおりこうにしていてよ」「ああもう、また泣いた」なんて、イライラばっかりしていたかもしれません。これから先何か困ってご相談することがあるかもしれませんが、その時はまたお願いいたします。

 3ヶ月半の我が子M、近頃は誰に抱かれていても、私と目が合うたび何度でも「にぱ~」って笑ってくれるようになりました。それが、心の底から驚いていることでもあり、何より嬉しいことでもあります。

「母に天心」

 先週は母のグループホームのクリスマス会でした。心配したとおり、うるさいのが気に入らない母は、ずっと怒っており、落ち着かない様子だったので部屋に連れて行ってもらいました。母を一人にしておけないので、私が付き添うことにしました。スタッフの人が一人、しばらく部屋にいてくれて、少し話をしました。入所している男性の方や、男のスタッフの人を見ると喜ぶ、という話をしてくれました。

 このスタッフの人は最近勤め始めた人なので、入所した当初、父に似た人をとても慕っていた話や、男の人に父(母から見たらだんなさんですね)を見ている話をしました。そんな話をした後、そのスタッフの人はクリスマス会に行きました。母と二人きりになり、なんとなく話をするでもなく、またとりとめもない話をしたり…。

「お母さんはお父さんがいなくなって‘安心感’がなくなっちゃったんだね。嫌いなお父さんだったけど、いるだけで‘安心感’は感じていたんだよね。お父さんがいなくなって一人で生きていくのは寂しかったんだね」

 なんだかそんな言葉がついて出ました。そうしたらすごーく納得できました。父が亡くなった後の落ち着かない様子の母、なんだかあせっているような感じがしました。今振り返ると…。きっと、寂しくて、それがどうしてなのか気づいていたのかはわからないけど、とにかく寂しくてたまらなかっただろうなぁ。私は、父がいなくなってせいせいしているんだろう、と思っていたから、そんなこと考えも及ばなかったよ。もうこれはどうしようもないことだから、「仕方ないね。でもお母さんがそういう気持ちでいたことがわかって、よかったよ」と話しました。

 それからもしばらく、クリスマス会はカラオケ大会で盛り上がっており、子どもたちは退屈しているだろうなぁと思いながら母といました。母は、左の足をさすっていました。骨折した所とかが痛むのか疼くのか…。私がさすってあげることにしました。そしたら、その私の手をつかんで、そのまま自分の足をさすりました。しばらくそのままでいたんですが、ふと、このまま天心しちゃおうかしら、なんて思いました。

 それで、母の手を握り、母の動きに付いていくことにしました。こういう時、呆けてわからないから特に説明がいらないのがいいですね。それに、気持ちの赴くままに行動している母にとって、そのまま手の動きが天心になりますよね。

 左の手だけだったのを、右の手もしてみました。向かい合ってね。しばらくそうしてたらね、母がよだれをたくさん流してきたの。ここの所、涙も出るんだけど、よだれも出てくるの。そのよだれの出方が、赤ちゃんが喜んでうれしくて興奮している時ってたくさん出てきますよね。その時とそっくりだったの。だから私は勝手に喜んでいるんだろうな、と思いました。

 よだれも、この楽しい雰囲気をやめたくなかったから流れるまま…。「なんだか気持ちいいね」と声を掛けると、うん、とは言ってくれたけど。そうそう、途中ですごい深いため息をついたの。ふーーっという、安心しているようなため息。なんだかおもしろかったよ。いつもの、和く輪く舎での天心とちょっと違う感じで。少しでも、母の気持ちのお手伝いができて、よかったよ。どさくさに紛れて?母の手に触れることができました。

 この間、お年寄りの家を訪問する機会がありました。地区の人とね。その時、その人は上手に、お年寄りの手を握るの。さりげなく…。私はできない…母の手も握れないのにって。なんだかショックでした。私はまだ母の手も握れないんだってわかって。それが、どさくさに紛れて、握っちゃいました。

 このところの寒波で、このあたりも真っ白になりました。寒くてたまらないけど、今年はこの寒さが、なんだかいいなぁと思える私。冬は寒くないと、です。

「そのままのお母さんでいいんだよ」

 土曜日に、母の所に行ってきました。なんだかいつもよりゆっくりしていたい気持ちでした。いつもは居心地が悪くて、早く帰ろうという気持ちがたくさんだったのです。でもこの間は、もう少しいようかな、と。Aとケンカしたこともあるしね。それでね、母に言ってみたいことがあったの。
「お母さん、寂しい?」
 気持ちが落ち着かない時がよくある、ということなので、きっと寂しいんだろうなぁと、ケアマネさんと話していました。その気持ちに寄り添う意味で、言ってみたかったの。

 勇気を出して、言ってみました。そしたらね、なんか空気が変わるの。いままでは呆けてしまった人の空気だったんだけど、シャキッとした、ピンと何かが通じた、そんな空気。母はね、「家に帰ろうか」って。でも、母には家がないんですよね。ずっと借家住まいだったし、弟は東京に行ってしまったし、私の家はやっぱり母の家ではないんですよね。娘が嫁いだ家。帰るところがない切なさに、そして呆けてしまった切なさに、母はうまく話せないのに一生懸命話すの。私はただただ、聞いてるだけでね、母の置かれている立場に涙が出てきたの。そしたらね、「そのままのお母さんでいいんだよ」と、思えたの。言葉にはできなかった。涙声になっちゃうから。本当は泣いて、一緒に泣けばよかったんだけど、まだそこまではいけなくて。ただただ、「そのままで、いいんだよ」と心で叫んでいました。

 本当は私と一緒に行きたかったみたいだけど、こうなると別れもつらくなってしまうけど。「また来週くるからね」と声を掛けて帰ってきました。言えたよ。母と気持ちの話ができるなんて。こんどは「そのままのお母さんでいいんだよ」と言えたらいいな。呆けてても、気持ちはわかるんですよね。すごい。

 ブログを見ました。「手紙~親愛なる子どもたちへ~」の歌詞、私、母にそうしてもらったから、という理由はないけど、呆けても人としての人格はあるはず、と思って接してきたから、それを認めてもらった気がして、うれしかったです。でもね、母を憎みながらも一人の人間として見ていた私ってすごいなぁと思います。どうしてそう思えたんだろう。母を憎んでいたからこそ、母と一線を引けた、からかぁ? なんだか複雑な心境。この「手紙~親愛なる子どもたちへ~」が、たくさんの人の心に届けばいいなぁ。

「母の悲しみが胸にぽろんと」

 阿部先生こんにちわ。わざわざ通信や資料を送っていただきありがとうございました。私も参加できることになりました。とても楽しみにしています。

 昨日のことでうれしい報告があります。ささいなことだったのですが、楽しみにしていたことがなくなってしまい、私はすっかり落ち込んで、半日ほどなんだかタメ息ばかりで過ごしていたのです。夜になって「抱っこ」の本を読み返してみたら、母親が落ち込んでいると子どもによくない……等々と書いてあったので、あわてて「抱っこ」をしました。そうしたら、「私が落ち込んでいるのに助けてあげられない。ぼくも辛い、心配だ……」という言葉で泣いてくれました。

 また、私がこうして、ちょっとしたことでいつまでもいやな気分から抜けられないのは、小さな頃に味わった辛さが湧き上がってくるため……と本に書いてあったので、「小さい私が出てきて苦しそうだ」と言うと、また泣いてくれました。

 それから子どもはすぐに眠ってしまったのですが、不思議と私の心のもやもやはすっきりと晴れて、確かに「残念だったな」という思いはあったものの、不快感はなくなってしまいました。私も布団に入って、ふと子どもに感謝すると共に、「ああ、家族っていいな。こんなふうに心配してもらえて、幸せだな。家族ってこんな意味があるんだなあ」と思ったと同時に、ふと母の悲しみが胸にポツンと、インクを落としたみたいに胸にしみました。母はひとりで悲しんでいて、私もいまの私の子どものように母を心配していたのに、母は気付いていなかったので、きっとひとりぼっちだったのだろうと思って、「かわいそうなママ」という気持ちと、「私はなんの力にもなれない」という気持ちを思い出した瞬間、涙がポロポロッと出てきました。

 私は、「抱っこ」のおかげで、子どもが実は人知れず(?)抱いていてくれている、大きな愛に気付くことができて幸せだなあと、心から思います。先生方にお会いできたことに感謝して、子どもを持てたおかげで、こんなにすばらしい一年になったことも感謝して……。「抱っこ(法)」って偉大ですね!私もこれからもっともっと子どもと一緒に泣いて、励ましあって、支えあって、成長しあっていきたいなあと思います。それでは22日なお会いできるのを楽しみにしています。さようなら。

「“大好き”が伝わったとき」

 阿部先生、こんにちは。年が明けてまもなく、私は35歳になりました。「35歳」……それは、母が私を生んだ年齢でもあります。

 “天心”で、当時の母の思いを強く感じていた私は、自分が当時の母と同じ35歳になるということがとても不思議で、また、「このまま35歳になってしまって良いのか……?」という、何かやり残したことがあるような、あせりに似た気持ちを抱いていました。そんななか年末年始の休みに入り、私たち家族は実家に戻りました。

 実家に泊まった翌朝早く、私は目が覚めました。前回阿部先生が、「恥ずかしがらないで、お母さんに抱っこしてもらえばいい……」と言われた言葉が、私の頭の中に浮かんできました。……やっぱり、ママに抱っこしてもらおう。

 主人と息子が眠っている布団を抜け出して、両親の寝室の扉をノックしていた私です。母が現れたので、「朝早くごめんね。お布団の中で抱っこしてもらっても良い……?」
 次の瞬間私は、母と一緒に母の布団の中にもぐり込み、抱っこしてもらっていました。「ママ……。」と一言だけ言ったきり、私は布団の中で母にしがみついたまま、大声で泣き続けました。そう……、天心の先生の腕の中で泣きじゃくったように。

 私より小さな体の母が、母より大きな体の私を抱きしめ、背中をトントントントン……とたたいてくれたことが、なんだかとても懐かしく、あたたかく、心地よく感じられました。

 たくさん泣いて、少し気持ちが落ち着いた頃に、私の思いを母に伝えました。「私は生まれる前から、自分に生きていく自信を持てずにいた。それなのに生まれてきちゃったでしょう? ずーっと不安な状態のままで生きてきちゃったみたい……。それなのに何かある度に、私はパパから、『お前なんか生まれてこなけりゃよかった』『生きる資格がない!』『生きていても迷惑ばかりかけて、何の役にも立たないヤツだ……』とさんざんなじられてきたでしょう。パパの言葉をはねのける力なんて到底なくて、私はただ辛くて、やるせなくて……。“どうして私なんか生まれてきちゃったんだろうー”“どうせ私なんか、生まれてきたって仕方がないのに……”と、無気力な私、自分のことが好きになれない私。何か問題が起こる度に、“やっぱり私のせい? 私がいるから……”と、自分を責め続ける私で生きてきちゃった。

 でも、主人と息子に出逢ってから、少しずつ変わってきたよね。大変なこともたくさんあるけど、投げ出したくなるときもあるけど、でも、生きる力や勇気を与えてくださる人達との出逢いが、どんどんつながってひとつになって、私は今、その人達の“渦の中”にいる。みんな見守られ、支えられ、『私の存在』を肯定して包んでくれて、応援し続けてくれる人たち。

 そして、パパが変わった。怒らなくなった。優しくなった。批判しなくなった。私や主人のことを大切にしてくれている。何より息子の全てを甘んじ、受け入れてくれている。こたつに入って息子を膝に抱っこして、『おりこう。かわいい。ジージは、お前が大好き』と言って、息子に絵本をたくさん読んでくれる。2人で公園まで散歩したり、ブランコに乗って遊んでいる。息子もそんなジージが大好きで、決してジージから離れようとしないもんね。“仲良しのジージと息子”を見ていると、すごく頼もしいし、幸福だなあーって思う。

 みんなのお陰で私は、今とても幸福! 生きていることが楽しいし、とてもステキなことなんだ……って実感できる自分になれた。だからね、私が35歳になる前に、どうしてもママに一言、言っておきたいことがあるの。“ママ、私を生んでくれてありがとう! 私は、生まれてきて本当に良かった”」

 母と私は、クリネックス片手に、また抱き合って泣きました。
 母も「私も娘のお前を生んでよかったよ。力強く、前向きに生きているお前たち家族を見ることが出来て、ママも本当に幸福!」って……。

 「親孝行」という言葉があります。両親に家を建ててあげるとか、どこか旅行へ連れて行ってあげるとか……。私には、そんなBIGなプレゼントの親孝行は出来ないけれど、“私が生んでもらったことを感謝して、今を楽しく生き生きと生きること”それだけでもひとつの親孝行になるのではないか?と、母のうれしそうな顔を見て感じました。

 ここからは父の話です。
 とにかく顔を見れば「批判」と「文句」しか言ってくれなかった私の父でしたので、彼と並んで歩くことすら出来なかった私でしたが、ナント、私は初めて、父と二人でデートをしました。

 先日、都内で開かれた講演会(講師:神渡良平氏・題目:「人は何によって輝くのか?」)に、父を誘ったのです。

 駅で父と待ち合わせをして、電車で新橋駅まで行きました。最初のうちはとっても緊張していましたが、いろいろな話をしながら、二人で昼食を摂り、講演を聴き、二人で一緒に感動をして……。そのあと、また二人で夕御飯を食べて……。新橋駅に向かう帰り道では、私は父の腕を組んで歩いていました。楽しい1日でした。

 帰りの電車の中で、父が私に言いました。「あんたは、偉いよ。立派だよ。彼と一緒になって、必死で息子のために生きている。精一杯頑張って生きている。たくさん本を読んだし、あんなふうに熱心に講演会にも足を運んでいる。本当によく勉強しているよ。よく、あんたのお母さんと話をしているんだ。お前の一家は息子を真ん中にして、よく頑張ってるナ……。たいしたもんだって……」父の目に涙が光っていました。「そんなことないよー」と返事するのが精いっぱいの私でした。嬉しかったです。とても……。

 神渡良平氏の「人は何によって輝くのか?」……その答えは、“「心」のしこりを取り除く”でした。阿部先生に教えて頂いたことが、また、ここでもつながりました(神渡氏は“内観道場”の話をされ、“天心”と重なるところが多く、興味深いお話しでした)。

 父と私は同じ時期に、“心のしこり”を取り除くことが出来たのかも知れません。だからお互い素直な自分になれて、お互いを尊重し合って、“大好き”を伝えあえるようになれたのだと思います。電車の中では、恥ずかしくて父に言えなかったけれど、帰宅してから父に手紙を書きました。「パパありがとう。楽しかったよ。私はパパの娘として生まれてきて幸福です……」

 いつもとちょっと違う。でも、とてもよい新年、そして、幸福な35歳のBIRTHDAYを迎えられた私です。

 阿部先生、そして和く輪く舎の先生方、ありがとうございます。今年もよろしくお願いいたします。この1年も、きっとワクワクする、ステキな1年になる……そんな予感がしています。

「『シズコさん』」

 『100万回生きたねこ』を描いた佐野洋子さんが書いた本で、『シズコさん』(佐野洋子著・新潮社)というのがあります。新聞の書評を見て、私と母の関係にそっくりなので読んでみたくて、図書館に予約してやっと読みました。

 佐野さんはお母さんの「シズコさん」のことが好きではなく、「シズコさん」は痴呆になってしまうのですが、世話をすることに罪悪感を抱えている、そんなような話です。

 うわぁ、私と同じ。それで、一気に読んでしまいました。内容は、お母さんを中心に戦中、戦後の佐野家の家族模様が書かれ、章の最後に、呆けてしまったお母さんの語録が2、3行書かれています。それが「シズコさん」が亡くなるまで書かれてあります。

 その中にね、佐野さんがお母さんの布団の中で泣いてしまう、という場面があるの。今まで、お母さんの面倒を見てきてもそれは決して愛情がこもっている、そんな感じではなく、義務感・罪悪感から来ていて、「シズコさん」のところに行くのが、いやでいやで仕方なかったの。でもある時、ふとしたことからお母さんが寝ている布団にもぐりこみ、そのとたんに泣き出してしまったの。そして「いい子でなくてごめんなさい」というと、お母さんも「私の方こそ悪かったわ」と言うの。

 私ね、うわぁ、そんなこと、絶対出来ない!って思ったの。それは今抱えている事にも関係していて、たくさんの気持ちを抱えられないなぁと思ったの。それに私もまだお母さんの体に触れないから。

 でも、その後お風呂に入ったんだけど、前に芳子さんに、気持ちをその人にぶつけなくても‘代わりに聞いてもらったり、おとなの自分が聞いてあげたりする’とメールをもらっていたから、お母さんのところで泣かなくてもいいやと思いました。でもね、ふと、「お母さん大好き」って言えたらいいだろうなぁ、それくらいは思っても良いかな、って考えたら、とたんに涙がばあーっと出てきてうれしい気持ちになったの。ほんわかした気持ち。ちょっと恥ずかしいけどね。

 泣きながらね、私のいろいろの根元は、「お母さん大好き」って言えたら解決できるような気がしたの(まだまだガードは堅いけど)。「お母さん大好き」って言ってる子って、言うだけで幸せな気持ちになるのかなって思いました。佐野さんも、その涙の後は‘風邪が直ったときの朝のような気がした’と書いてあり、その後は「シズコさん」のところに行くのが楽しみになったそうです。

 私の母は、相変わらず。それでも痴呆は進行しているようで、体の機能も、少しずつ衰えてきています。私が行くのを楽しみにしているようです。私は、ただただ、母の部屋にいて、お話ししたり、本を読んでいるだけなんだけどね。それが今の私に出来る、精一杯のこと。そんなことも、母は知っているのかもしれません。そんなことも、感じました。

「葛藤が安心に変わるとき」

 奇しくも、昨日、父と病院に行って、これまでにはない思いが浮かんできていました。行き帰りの車の中でも、父はけっこうおしゃべりをしてきます。それが、人の悪口だったり、否定的な物言いだったり・・・。私は、「あー、また、始まった。いつもいつもこう。ずっとずっとこうだったんだから・・・」と思いました。ただ聞いていたり、ムキになって父の言葉に反発したりでした。いつもの私の反応です。

 帰りに、一緒にラーメンを食べて帰ることにしました。なんだか食欲がないと言う父に、「私は、何でもいいけれど、父ちゃんが何か食べたほうがいいと思うから。何か食べられそうなものない?」と言ったら、「ラーメンでも」って言うので、ラーメン屋さんに寄ることにしました。でも、父は、「食べたくない」と言って、ずいぶん残しました。「もーう、こんなくらいなら、寄らなかったのに」と私は文句を言いました。でも、私は、ものすごくお腹がすいていて、ラーメンとから揚げのセットにおにぎりも1個食べました。父の残した分も少し食べました。文句は言ったものの、とてもおいしく食べることができました。

 父がお気に入りのラーメン屋さんで、私が小さい頃からよく食べに行っていました。いつも私と父で出かけて行って、器を持っていって、帰りに母の分はそれに入れてもらって持ち帰るのが我が家流でした。母は、それをおいしそうに食べていました。

 昨日は私が食べている間、父は何も言わずに待っていてくれました。今まではそんな時もなかなか待てずに、「早く」とか言う人なのですが、そういえば、昨日は何も言いませんでした。そして、「なんて、よく食べるんだなあ」と言いました。「そうや、しっかり食べたいもの食べて頑張らないと」と私。父に見守られて?食べている時間、昨日の私にとっては、なんだか心地よい時間でした。父の愛情に見守られている・・・、そんな感じがしたのです。こんな感じを味わうなんて・・・、不思議!

 私は、いつも、「こんな父でなかったら・・・」という気持ちを抱いてきました。でも、一方で、「父に申し訳ない。私がもっと頑張れば、父に淋しい思いをさせなくてもいいのに、父を喜ばせてあげられるのに・・・」そんな気持ちも抱えていました。だから、じゅうぶんなことをできない自分を責め続けていました。昨日、ふっと、「できることを、できる時に、心をこめてできたらいいのかな。病院への付き添いはやらなければならないし、その時には、父に心をしっかり向けて傍らに居られたらいい。ゆとりがあって、父の好物を作る時間があれば作ったらいい。無理をして、心ここにあらずで、義務感と自己満足のためにあくせくする必要もないのかな」そんなことを思って、少し、肩が軽くなったように感じました。

 そんなだったので、芳子先生からの「よくやってるね」という言葉を、そのまま素直に受け取ることができました。労いをいただいてとても嬉しかったです。ありがとうございます。

 日曜日、娘が、「元気?」と尋ねてきました。「元気だよ」とこたえて、娘の背中にそっと手をおきました。「背後霊みたい。やめてよ」と娘。「えーっ、ずっとついてるよ」と言うと、「そうやって、本人は自己満足かもしれないけれど、けっこう負担だったりするんだよね」と娘。ドキッとしました。「ここまで言えるようになったんだな」って一瞬思ったけれど、次第に、娘の言葉が突き刺さってきて、「娘の言うとおり。私が悪い。私が娘の足を引っ張っている」そんな気持ちがどんどん広がってきて、ぐんぐん沈んでいきました。「何、疲れた顔して」と言って、部屋に行ってしまいました。

 何もする気力もなくなりました。ひとりになろうと思いました。息子のロフトベットにもぐりこみました。なんだか自分だけの空間が確保できたみたいで安心でした。足をのばして仰向けに寝ました。布団がぽかぽかと暖かくて、それはそれは心地良いのです。暖かさにすっぽりと包まれた感じになって、なんだか、閉塞感が薄れていきました。なんだか気力がわいてきました。

 「よし、布団を入れ替えしよう」って決めました(私と夫は、結婚以来使っている布団に寝ているのですが、もうすっかりせんべい布団になってしまっていて、寝心地がとても悪かったのです)。「ふかふかの暖かい布団に包まれて眠ったら、それだけでも、元気になれそう」って思ったのです。起き上がり、奥深くしまいこんであった布団を出して、シーツをかけて・・・。ずっとずっと気にかかっていた廊下の片付けもできました。それも、「何かやらなければ・・・」っていう感じからではなく、不思議なくらいに落ち着いた感じで体が動いたのでした。

 ロフトベットでのあのなんともいえない暖かな感じ・・・、あの感じは忘れないでいようと思いました。その暖かさに包まれて「あー、私は、この何年、ずっと、自分の執着のためにジタバタしていただけだったかもしれない・・・」と、遠いところで感じている私がいました。

 娘の言葉のショックも次第に薄れていきました。「言葉に惑わされないようにしよう。事実、娘の言うとおりでもある。でも、これからは、おとな心を立てて、娘のこと見守っていってやれるようになったらいいな」って思うようになりました。

 娘からさっき、「元気が出ない、お腹すいた、甘いもの食べたい」って、メールが届きました。「元気が出なくて当然だよ。無理に元気になろうとしなくていいよ」って返事を送ったけれど、私の中のチャイルドは途端におろおろして不安を大きくしています。大きな力、暖かな感じをイメージして、元気の出ない娘と私の不安を一緒によしよしできたらいいなあ・・・。

 高校進学の選択の時、葛藤の毎日です。

「“Thanks Mother’s Day”」

 I先生へ。
 今日はありがとうございました。夜、Rに添い寝するとぺったりと張り付いて私の胸をぽんぽんとたきながら「よしよし。よしよし」「ママ、大好き」「よしよし。よしよし」と、抱っこで私がRにしたようにしてくれました。雰囲気を察してか、ベッドの上段で寝るSが「いいな。俺も下で寝たい。Rが上で寝ればいいのに・・・」と甘えん坊モードでした。

 さてさて、母の話ですよね。今日徒然なるままに話したことを改めてメールにするのもなんだかな~って感じなのですが・・・。母への確執は長い間私の中に横たわりにっちもさっちも行かない状態でした。母を変えることは私には出来ない。母を幸せにすることはできない。母と私は別の人間。だから仕方がないこと。頭ではわかっていても心の中は失望感と無力感でいっぱいでした。

 抱っこ法の掲示板でそこに集う人たちとやりとりしているときに改めて気づきました。うすうす感じてはいたことなのですがそのとき、妙にはっきり感じました。子どもの頃からあの手この手で母に訴えてきたけれど何も届きませんでした。訴えは怒りに変わり、責めに変わりました。母を責めることが支えになりました。だけど、母を責めながら、私は常に自分を責めていたのです。そして私の悲しみは母に愛されなかったことではなく、母を幸せにできなかったこと。私という存在が母の喜びであってほしかったのに、それを感じることができなかった。母に私という存在を喜んで欲しかった。ただそれだけのことがわかって、私自身とてもホッとしたのです。そんな中で今年も母の日がやってきました。今度こそ母を喜ばせたいと高いものを買ってはみても、いつも母は「別にいいのに・・・」。不満そうな私を横目で見てとってつけたように「ありがと」。翌年は腹いせで安価なものを贈ります。やっぱり「別にいいのに・・・。ありがと」。

 今年は安価YEARでした。西友で1200円ほどのカットソーを2枚買いました。プレゼントを持って実家に行きました。母はいそいそと箱を開け、「あら!2枚もはいっているわ」。安物のカットソーをひらひらとひろげ、またまたいそいそと着て見せます。「どうかしら?」実にしらじらしい。私に気を使っているのが見え見えで、話す言葉は幼稚園児の学芸会以下です。いつもなら「また喜んでくれないだな」と、悲しさと怒りで母を直視できなくなり、私の眼は宙を彷徨います。今年はそんな不器用で素敵でない母をじっと見つめました。私の中に怒りも悲しみも湧き上がりませんでした。ああ、この人はこれが精一杯なのだ。60歳になる母が娘のために一生懸命喜んだ振りをしている、彼女の精一杯の努力なのだ。充分でした。

 不器用で素敵でない母をとても愛しく思い、長い間、私を縛り付けていたものがするすると私の体から離れていったのです。やっとこれで楽になれる。本当にホッとしました。劇的な変化なはずなのに心はとても静かでした。今までで最良の母の日だったと思います。とはいっても母を憎む気持ちはまだまだ健在です。恨みだらけの心の中に愛しさという芽が息吹いて今は恨みと愛情、半々といったところです。でもこの半々への道のりが本当に長かった。だから半々がとっても嬉しいのです。半々なんて中途半端を喜べる自分がまた嬉しいのです。

 母を許せた。自分を許せた。だからこれからは心おきなく文句が言えるのだ。前回の抱っこ法で先生がRに言いましたよね、「パパに大好き言う前に文句を言おうか」「大好きだからその前に文句を言わせてもらうよ」って。私もそうです。もちろん母に直接伝えるわけではありません。母から受けた傷を癒したい。もう母を責める自分を責めないでいい。自分で吐き出し、自分で抱っこできる。ちゃんと癒されていいんだ。

 先日借りてきたレンタルビデオに印象的なシーンがありました。余命宣告を受けた若い主婦が刑務所にいる自分の父に会いに行くのです。父親は酒飲みで家族を苦しめ、彼女の母は父を憎んでいました。10年ぶりにガラス越しに父と再会します。父は言います。「信じてほしい、私は家族を愛していた。でも幸せに出来なかった。どんなに努力してもダメだった。家族が望むようには愛してあげられなかった。だけど愛していたんだ」と。あー、うちの父も、そして母もきっとこの父と一緒なんだなあ・・・。いろいろな人の気持ちをいただき、先生に支えていただき、タイムリーにこんなビデオを見て、なんだかとっても
不思議ですよね。

 今日頂いた和く輪くだよりはいきなり”Thanks Mother’s Day”だし! どっひょ~ん!出来すぎ!! 今までは全てを母のせいにして母を責めてきたけれど、母の辛さは母に返し、自分の辛さは自分で取り組んでいかなくちゃ。さあ!もう誰のせいにもできない(ちょっと困った!!)。

「歩く意志」

 東京はまだ防寒着を着たり暖かい靴下でしのげるなんて…やっぱりこちらは寒いんだなぁと実感しました。

 今日はうれしい話を聞いてください。
 母は、膝を痛めたり大腿骨の骨折などで車いすになってしまいました。大腿骨の骨折の時に手術をする、という話もあったのですが、その時すでに車いすに乗っており、直ったとしても‘歩く’ことを忘れてしまって歩かないだろう、認知症の人はそういう過程を追っていくからしかたない、という話を聞きました。なので手術はしませんでした。

 でも、車いすの母の様子を見ていると、自分で動けないもどかしさがあるようで、それはそれで苦しいだろうなぁと思いました。

 昨日、会いに行きました。そしたらスタッフの人が、車いすの足を載せるところに足を載せず、床に足を付いて、まるで幼児の歩行器のようにぱたぱたと歩いて?いたそうです。また、杖を突きながらゆっくりと、スタッフの人とお風呂まで歩いていったそうです。

 ‘歩く’意志、‘歩きたい’意志がしっかりしているんですね。‘歩く’ことは忘れているかもしれないけど、自分で動きたい、という気持ちが‘歩く’ことをさせていたんです。なんだかとってもうれしくて。物事は忘れてしまうけど、やりたいという気持ちが、体を動かしているんですね。その気持ちを母が持っていた、まだ持っていた、そのことがとってもとってもうれしかったです。

 なんかね、「あんた何やってるの」と母に言われたような気もしました。ここんところ落ち込んでいて、悶々としていたから…。昨日は、母の所にいてなんだかホッとしてきました。最近、泣くのです。顔つきが穏やかになっているような気がして、それで癒されたのかな。

「A先生へ」

 生き生きとした緑がまぶしい今日この頃、お元気でいらっしゃいますか? 今日和く輪く舎だよりが届きました。A先生のお手紙、読みました。末っ子の息子さんが巣立って行かれたのですね。そして以前にお話ししてくださったお母さんのことも・・・。ポロポロなみだが出てきました。何だか上手くは言えませんが・・・。お母さんはとってもA先生のことを愛していて、先生もとってもとってもお母さんのことが大好きで・・・。A先生は息子さんのことが可愛くて可愛くて・・・。息子さんはお母さんのAさんが心配で大好きで・・・そうみんな大好きでつながっているんだなぁって。先生お母さんの娘にうまれてきてよかったですねって・・・。息子さんが生まれてきてくれて良かったですねって心から思いました。

 巣立っていったことも、動物の仕事についたことも、みんなみんなつながっているのでしょうね。生きていくのにつらいことももらってしまったかもしれませんが、それも大好きだからこそなのかもしれませんね。私の方ですが、2月△△日に男の子を出産しました。先生と同じ三人息子の母となりました。予定日より1ヶ月もはやく生まれてしまい、2130gととっても小さな赤ちゃんでした。こんなことになってしまったのも、私のせいだ・・・と。私女の子が欲しくて欲しくてたまらなかったんです。でも12月の健診の時に男の子ということが判って、もう心底がっかりしてしまって、立ち直れないくらいで1ヶ月くらい夜毎日泣いていました。出てくるのはため息ばかり・・・。おなかの中で赤ちゃんはどんなにつらいかと思いながら、友だちにも“また男の子なの。もうがっかり・・”と言い放っていました。そして赤ちゃんに悪いと思いつつも、暴食が止まらなくってチョコレートを何箱も 気持ち悪くなるくらい食べ続けてしまったり・・・。結果、むくみで身体中パンパンの状態でした。

 母との関係もあまりよくなくて、せっかく泊まりがけで遊びに行ったり頼みたいことがあっても、自分の用事ばかり優先させて、私の体調も心配してくれないことに、やっぱりお母さんはそうなんだ、私なんかのこと生みたくて生んだんじゃなかったんだし、また出産の時もイヤイヤ世話をしてもらうんだろうな~とドロドロな気持ちでした。せっかく赤ちゃん授かったのに、こんな心では申し訳ない申し訳ない、ごめんねとお腹にあやまりながらの毎日でした。そんななかで破水して出産となってしまったのでした。

 K助産院での出産で、“どんなお産をしたいか”を紙に書いてくるように言われていました。今回で出産も最後だろうから、上2人の時にかなわなかったので、夫に立ち合ってもらって、上2人もそばについてくれて、みんなのはげましの中で出産したい。そして産んですぐに胸に抱きたい(これも上2人の時かなわなかったので…)。私自身が生まれてきてよかったと思えるような出産をしたい…なんて書いていました。

 そして夜中の破水…夜中だったことが幸いして、夫も子どもたちもそろっていたので、みんなでそろって助産院へとむかったのでした。そして、願っていた通りにみんなが手をにぎってくれて“お母さん、がんばって!!”とはげましてくれる中で、三男を出産することができたのです。本当に皆が私のことをはげましてくれて、側にいてくれることが嬉しくて、しあわせで、本当にうまれてきてよかった…と思えた瞬間でした。生まれてきた三男に、ありがとうありがとうと、さけんでいました。K先生の“子どもはね、お母さんを幸せにするためだけに生まれてくるのよ”の言葉に泣いて泣いて泣きました。私はお腹の赤ちゃんに本当にひどいことしたのに、つらかっただろうに、この子は私の願いをみんなかなえてくれたんだなあって…。生まれてきてくれたSが本当に可愛かったです。

 でも未熟児で、2130gの小さいSを育てていくのはすごく大変でした。おっぱいを吸う力も弱くて、夜中も泣きっぱなし、体重もどんどん減っていくし、心配で心配で、私のせいでこんなに早く生まれてこさせてしまったことがくやまれてなりませんでした。

私の身体の方も、退院する頃になっても子宮がぜんぜん戻らない状態で、またK先生に“おや!?子宮は自分自身だよ”と言われて、また思い当たることあり…で、私、ずっとずーっと母親を責め続けていました。私は小さい頃からこんなに一生懸命お母さんの為にやってきたのに、お母さんは、私を愛してはくれない…と。どうしてあんなに女の子が欲しかったのかといえば、自分が母からしてほしかったのにしてもらえなかったことを娘にしてあげたかったのですね。ゆっくりお人形さん遊びしてみたい、一緒に教えてあげながらお料理してみたい、買い物もしてみたい…そして何よりお産で実家に帰ってくる娘に思いきり甘えさせてあげたい…と。

 そして私も2300gと小さい赤ちゃんでうまれてきたんですね。Sをうんで、はじめて小さな赤ちゃんは、どんなに育てるのに苦労したか、心配だったかがわかったんです。私の母もこんな思いをして育ててくれたんだろうなあって…。私は母に望むばかりで、ずーっとたりない部分を責めてきた。でもSはこんなにつらい思いをさせてきたのに、私の願いをすべてかなえて生まれてきてくれた。私も母に求めることばかりはやめて、母の幸福を願えるようになろう…と思えたのです。そう思えたら、みるみる子宮が戻っていったんです。不思議ですね。

 私たち家族に春のようなしあわせを運んできてくれた子。Sには人が集まるという意味があるそうなので、周りの人から可愛がってもらえるように…とSと名前をつけました。そんなこんなで、Sも3ヶ月となりプクプクちゃんとなってあやすと笑うようになりました。Y、Tもお兄ちゃんとして本当によくSを可愛がってくれています。でも、やっぱり…。Tは“Tちゃんね、泣きたくても泣けないの”なんて言ったりして、今迄の末っ子ポジションをとられて、不安やさびしさをかかえているようです。“Tちゃんのこと、Sちゃん生まれても変わらず大好きだよ”と言ってはいるものの、抱っこが必要みたいです。Yもここのところ微熱が続いているのです(Mさんのお子さんの例もありますよね)。上2人にもゆれる気持ちをかかえているのに気づきつつも、毎日の生活にただただ追われている状態ですごしてしまっています。そして私もSに対してすまない気持ちで苦しくなってしまったり妊娠の最後の1ヶ月がポーンと消えてしまったこと、とりかえしのつかない1ヶ月がさびしくなってしまったり…。時々主人の以前のメールのことを思い出しておびえてみたり…。Sには本当に抱っこして、お腹の中でつらかったことを受け止めてあげなくてはと思っています。

 抱っこに行きたーい!!!長い長い手紙となってしまいました。A先生と同じ3人息子の母となってまたものすごく先生とのご縁を感じてしまう私です。男の子3人の子育てはそりゃあ大変だったことでしょうね。洗濯も食事の量もハンパじゃなかったことでしょう。そして巣立ちのさびしさも…。男の子はひとしおなことと想像いたします。

 “お母さんお母さん!”といつも手をつないでいた小さかったYも、少しずつ私の手から離れていきつつありますもの…。だからこそ、お母さんの子に生まれてきてくれてありがとうというメッセージを伝え続けることが大切なことだと感じています。