夫婦げんか・親子げんか

「とととかあちゃんすきよ」

 我が家の子ども達は、主人の事を「とと」と呼びます。そして、私の事を「かあちゃん」と呼びます。
「どうして、ととって呼ぶの?どうして、今の時代にかあちゃんなの?」
よく、人からそう聞かれます。かあちゃんと呼ぶことに関しての理由は特になく、いつの間にか、気が付いてみればかあちゃんだったのです。いつでも、どこでも、かあちゃん、かあちゃん。ただ、最近、上の子A(6歳)は、私の呼び方をかなり使い分けているようなのです。例えば、幼稚園のお友達の前では、ママと呼びます。先生の前や、お友達のお母さんの前では、お母さんと呼びます。どうしてなのか、本人に聞くと、
「私だっていろいろあるのよ。」
今時の6歳、なかなかあなどれません。

 さて、「とと」と呼ぶ理由ですが、これには深い訳があります。ニックネームの様な、簡単?変?一歩間違えばお魚?いえいえ、これには大変なエピソードが隠れているのです。

 Aが1歳半の時、そう、ちょうど今と同じ暑い夏でした。Aは言葉を覚え始め、たどたどしくはありますが、なんとかおとうさん、おかあさんという2つの単語を言えるようになりました。小さいながらも、お父さんとの時間、お母さんとの時間をきちんと使い分け、自分の心の調和をとっていました。

「今年の夏は忙しくなりそうだなあ…」

少し前から聞いてはいたのですが、実際夏本番が来てみると、その言葉の通り主人の帰宅は、夜中の2時3時、朝は8時には家を出るという生活になりました。休日も仕事、そしてお父さんとAの時間がほとんどゼロの状態になり、そんな生活が2週間程続いた頃、Aの様子に変化が出てきました。無表情、訳もなく泣く、一人で遊べない、おやつばかり欲しがる。あきらかにAの心は乱れはじめました。私はそんなAの笑顔を取り戻したくて、ビデオをつけたり、歌を歌ったり、手遊びをしたり、本を読んだりいろんなことをしてみました。でも心が乱れていたのはAだけではなく、私自身の心も乱れていたのです。

 当時の私には近所に友達もなく、両親とも仲が悪く、話し相手といえば主人のみ、会社から帰宅した主人をつかまえ、トイレにもおふろにもついていき、機関銃のように言葉を発し、私もそこで心の調和をとっていたのです。私にとってもその時間がゼロの状態になってしまった訳ですから、Aの笑顔を取り戻すなんて言っている前に、私の方が自分を見失っていたのです。

 心の中で主人を責め、主人の前では全然平気な振りをして、ぐずるAを責め、反発するAを責め、そして、そんな自分を最低、なんて嫌な母親なのと責め、そんな毎日が繰り返されました。

 主人の仕事が忙しくなり始め、ちょうど1ケ月がすぎた頃、事件が起こりました。私は夜9時頃Aを寝かしつけ、後片付けなどの家事を済ませ12時頃床に就きました。主人の帰りが気になり、なかなか寝付けないでいると、寝ていたはずのAがガバッと起き出し、うろうろと家の中を歩き始めたのです。両手を前に出し、何かを探している様子。そのままの状態で玄関の方へ行くと、玄関のドアを両手でバンバン叩き始めました。「おとうさん、おとうさん」と叫びながら。突然のことで私はびっくりして何もできませんでした。事のなりゆきを、ただ動けずにじっと見ていることしかできませんでした。

「Aちゃん、Aちゃん、お父さんはまだ帰ってきていないのよ。どうしたの」

あまりに強く玄関のドアを叩くので、心配になり、そのまま放っておく訳にもいかず、私はAを抱き上げました。Aはいやいやをしながら、私の手を振りほどき下に降りると、また玄関のドアをバンバン叩き始めました。あわててもう一度抱き上げ、さっきより強く抱きしめました。今の状況をなかなか理解できずに、Aを抱っこしたまま今度は私が家の中をうろうろ歩き回っていました。すると、玄関の鍵を開ける音、ドアが開き、そこには主人が立っており、

「こんな夜中に何やってんの?」

時計を見ると、2時を回っていました。今あったことをありのまますべて主人に話すと、

「そうかあ、みんな苦しかったんだなあ…」

Aの異常な行動に、私たちはびっくりし、おおいに反省しました。その日の夜は、久しぶりに一緒に布団に入り、川の字で眠りに就きました。
翌日、

「ねえ、Aちゃん、昨夜のこと覚えてる?」

と聞くと、きょとんとした顔でAは私を見るだけ。しかしその日を境に、Aは「おとうさん」という言葉を二度と口にしなくなりました。ほかの言葉はどんどん言えるようになるのに、お父さんだけは絶対に言わないのです。お父さんとの時間がもてるようになっても、だめ。お父さんといっぱい話をしても、いっぱい遊んでも、だめ。「おとうさん」という言葉がまったく存在しないかのように、Aは知らない振りをしてその言葉の前を通り過ぎていくのです。子どもは、耐えられない悲しみや苦しい思いを経験すると、その出来事を心の底に沈め鍵をかけ、「何もなかった、見なかった」そう処理してしまうといいます。

 Aは、理由も聞かされずにお父さんが自分の前から突然いなくなったことを理解できず、それがどうしてなのか分からず、自分を責め、自分のせいでお父さんがいなくなったんだと思い込んでしまったんでしょう。、悩んで悩んで、そんな思いがあんな行動をとらせたのではないか。後日抱っこに行った時、芳子先生がそう話してくれました。

 「とと」という呼び名は、主人が悩み、考え、生まれた呼び名です。難しすぎず、呼びやすく、お父さんをイメージできる、そしてAも受け入れてくれる。こんな簡単な呼び名には、こんなにすごいエピソードが隠れていたんです。Aはそれ以来、主人のことを「とと」と呼びます。なぜ自分がお父さんではなく、パパではなく、ととなのか、私に聞いてもきません。あの出来事がAの心のなかで、どうやって処理されているのか、今では私たちにも分かりません。

 子どもって、すごいです。本当にそう思います。エネルギーがあって、頭が良くて、感性が鋭くて、繊細で敏感で。そう、この間もこんなことがありました。

 私たち夫婦は、時々けんかをします。けんかというか、自分たちはけんかではなく話し合いだと思っているのですが、時に口調は強くなり、その後少しの間はお互い口をききません。この間も、その強めの話し合いをしていました。下の子R(2歳半)が同じ部屋の片隅でその様子をしっかり見ているのも忘れ、ガンガン話し合っていました。何かの用事で話が途切れ、私たちはお互いその場を離れました。そのすきに、Rがダッと私の足元に駆け寄り、

「とととかあちゃん、すきよ。とととかあちゃんすきよ。」

切羽詰まった顔で何度も何度もそう言いながら、私の足にしがみついてくるのです。先日、阿部先生の所に伺った時、その話をすると、
「まあ、なんて素敵なけんかの仲裁」
芳子先生がひどく感激して下さり、私はなんとも情けない気持ちになりました。「やめてー」ではなく、「すきよすきよ」でけんかの仲裁をするなんて、本当、子どもってすごいんです。一生懸命生きてる、体のどこを探したって曇った所なんてひとつもない。そして、何でもお見通しなんです。
「あのコップ、持ってきて欲しいな。今洗っておきたいんだけどな」
と邪心もなく、心が無の状態でふと思った時、子どもって急に気が付いたように持ってきてくれるんですよ。うそのような話ですが、今までに何回も同じようなことがありました。以心伝心って、本当にあるんです。

 自分の心の傷に気づいて、6年の月日が過ぎていきました。いろんなことがあった6年でした。抱っこに出会い、最初の頃はいい事なんか何もなく辛くて苦しい事ばかりで、抱っこを憎んだ時もありました。
「どうして、そっとしておいてくれなかったの。なんで私の心の鍵を開けたの?」
ずっと我慢してきたことが、Aの出産と同時に生まれてきて、次から次へと私を苦しめるのです。主人にも理解してもらえず、途方に暮れることばかりでした。2年程前、そんな主人が初めて心を開き、私を受け入れ、認めてくれるようになったのです。それが、私の人生の転機となりました。初めて自分の生きている意味を知り、子育てに対する生きがいを感じ、こんな私が好き、こんな私だから私なんだ。ほんの少しずつではありますが、そう思えるようになりました。

 認めてあげる、子どものいい所も悪い所も認めてあげる。きっと、子どもはそれだけで生きていかれるのだと私は思います。私は、一度も親に認めてもらったことがありません。抱き付けば突き放され、泣けばののしられ、さみしくて辛くて誰かに助けてもらいたくて、ずっと手を伸ばしていました。今は手を伸ばせば、夫がいます。子どもがいます。そして、抱っこが私を認めてくれます。その出会いに、心から感謝しています。阿部先生、芳子先生ありがとうございます。そして、これからもよろしくお願い致します。



「いつものように怒りすぎてしまい」

〈第1信〉

 W様
 もうすっかり春の風、光が心地よくなってきましたね。お変わりありませんか?

 先日はお手紙ありがとうございました。特に勉強をしているわけでもなくただ、実際の子育ての中でいろんな本を読んでみたりいろんなこと感じたり・・・・。今はそれが何よりも大切だと思っています。

 先日、Hが素敵なことをいってくれて感動したのでちょっとお話させてください。

 あんなに毎日駄々こねに格闘していたHですが、ここのところはたまにするくらいで落ち着きました(ダダこねするときは相変わらず強烈です)。でも、今思うのはあれはあれで必要だったのだと思うし、和く輪く舎にいったときWさんが、「言い張れるっていうのはすごいことなのよ~」っておっしゃっていたのがよくわかりました。私はHは甘え下手だと思っていました。確かにぺた~っと抱っこされることはあまりなかったのですが、「言い張る」という甘え方。それでも良かったんだ。と最近思えます。ある意味甘え上手とさえ思えるようになりました。

 というのも、あれからめきめき自立し始めています。トイレも一人で行けるようになったし、公園でも集中して遊べるようになったし、何よりも彼女は自分の意見をきちんと言える。これはやっぱりあの駄々こねの結果のような気がします。私がちょっと怒ったくらいじゃへこまない。かえってどんどん言い合いになる。それがまた私には(私のチャイルドには)必要なようで、たまに本気でチャイルドになって喧嘩することもあります。でも最後にはちゃ~んと仲直りします。

 最近の私の中でのキーワードは「仲直り」。正直、謝ることが苦手な私。子どものほうが、上手に謝ってきて、「あ、しまった。これは私が先に謝らなきゃいけなかったのに」ということもあって・・・。大分成長させられました。いっぱいいっぱい言い合って言い過ぎたら少し時間が空いてしまっても「ごめんね」と。理屈を並べてしまえばいいすぎてしまうのは大人の私。本来は私のほうが謝ることが断然多いのです。子どもが本当にわるいことをするって案外少ないものですね。

 そうそう、話がそれてしまいました。その自己主張の強いHちゃん。お風呂上りのみんなの会話で・・・、
N「ママは大きくなったら何になるの?」
私「え~何になるんだろう・・・みんなは何になるの?」
N「ママになる~」
H「ママになる~」
S「ばーちゃん」
私「男の子だからバーちゃんにはなれないねえ。ジーちゃんにはなれるよ」
「じゃあ、ママはおばあちゃんになるよ」
そんな話をしていたら、どうもHが不機嫌。
H「ママはおばあちゃんにはならないの!!」
私「でも年をとるとおばあちゃんになるんだけどなあ~」
H「ママはママのままだよ!! Hはどうでもいいよ、何でもいい!!(怒)」
私「なんでもいいって・・・そんな~。まあ、いいや」

 その話を終わらせようとしたら、つかつか私のところによってきて怒りながら、
「Hは誰にもならない!!HはHだよ!!!」
 ああ~!!なるほどね。大きくなったら何になりたいかってちょっと勘違いだけど、でも、なんか素敵。自分は自分でいたいって思ってくれて、本当に感動してしまいました。

 いっぽう双子の片割れNちゃん。甘え上手だと思っていたNちゃん。今でもふにゃふにゃ言ったり、しています。相変わらず気が利いてやさしいのですが、逆にそれがちょっと気になってきました。Hとは反対にちょっと私が怒ると引いてしまいます。私に嫌われたくなくて機嫌をとっていたりするのかもしれません。甘えても甘え足りず、ふにゃふにゃぐずぐず言っているタイプかもしれません。駄々こねもしますが、つい私も余裕がないときちんと付き合ってあげられないし、Hの場合はそんな私の都合お構いなしに駄々こねするのですが、Nはその辺私に気を使うのでしょう・・・。もう少し手を添えて駄々こねに導いてあげると自信がついてくるのかもしれませんね。

 ついでにもうひとつ、今日ちょっと驚いた話を・・・。
 先日もお手紙に書きましたが公園でよく会うお友達Bちゃん。きょうは保育園に預けていたようで保育園のお友達と公園に来ていたBちゃん。公園から帰ってきてお昼ご飯食べているときにHが、
H「ねえ、Bちゃんは今日お母さんいなかったよね。赤ちゃんなのにどうして泣かないんだろう」
私「うん、今日はお母さんご用があって保育園に預けたんだね。Bちゃんはきっとがんばるさんなんだよ」
H「本当は泣きたいんじゃないの?」
私「そうかもね。本当はお母さんいなくてさみしいかもね」
Hがそういうところをよく見ていたことにびっくりしました。ちなみにBちゃんのママは第2子を妊娠中。なるほど、Bちゃんががんばっている理由のひとつなんでしょうね。

 毎日毎日、ほら~かたずけだ~。ごはんだ~おふろだ~と怒ってばっかりだけど、ふとわが子の成長に目を向けるとなかなか充実した日々を送っているなあ・・・と感じる今日この頃です。

 ここから4月になってからのお話です。
 どうもここのところイライラして子どもにあたっている日が続いています。多分、主人の仕事が軌道に乗らず、不安なこと、子どもとの添い寝をやめて「ママはお仕事しなきゃならないからね」と言い聞かせても、何度も泣いて呼ばれてしまうこと。子どもを寝かせてからパソコンに向かい、主人の仕事の手伝いで寝不足なこと・・・・。そのせいで多分子どもが不安定になってぐずぐずいってること。いろんなことがうまくかみ合わずイライラしてしまうのだと思うのですが・・・。先日は些細なことで怒鳴って、子どもにいやな思いをさせて、涙がこみ上げてきてうわ~っと泣いてしまいました。「パパの仕事のことが不安なんだよね」と自分自身に声をかけ、いっぱい泣いて、子どもに謝りました。でもなんとなくスッキリしない。

 そして今日4月になってからはじめての保育園。新しく入ってくるお友達もいたり、お部屋の模様替えもあったり、ちょっと不安だったはず。でも3人とも平気な様子。お迎えに行ったら、いつものことだけどなかなか支度が進まない3人。うちが一番早く迎えに行ったのに一番遅くなってしまって・・・・。

 おまけに、今年度は保育園側がけじめをつけようとなさっているようで、お昼を食べて帰らない子達は部屋を閉め切ってお昼ね体制(今までは一応お昼ね気配になっていましたが、遊んでいる子がほとんど・・・)。早めに帰らないとみんなの迷惑にもなります。案の定注意されました。

 それでも「靴下が片方ない」といってぐずるNとか、お片づけしているおもちゃをわざとひっくり返すS・・・。「今日はNちゃんHちゃん二人ともとてもおりこうさんで手をつないでお外にいって、転んでもちゃんと自分で起きてほんと自立しましたね」と言われていたので、(あ~今日は新しいお友達もいてスタッフが大変だったのかな?がんばりすぎだなこりゃ)と思い、ここのところ抱っこ抱っことせがむSを抱え、何とか泣き叫ぶNを歩かせ、がんばっているHが手伝ってくれて。帰り道はNにおしりをぶたれながらだし、Hは家まで我慢できずに、「Hが一番我慢してるよ!!」といって泣き出すし・・・・。

 彼女たちの気持ちもわからないでもないので、家に帰ってきてから、「ガンバったんだよね。いいよいいよ泣いていいよ」といったら、本当に二人して号泣。30分は泣いたでしょうか? Hは「ママが帰るのが寂しかった」と言って、「そうか、そうか。朝はやっぱり分かれるのつらいよね。朝いやだよ~って泣いてもいいんだよ」というと、少しスッキリした様子。

 Nは苦しそうに泣いてなかなか収まりません。どうも言葉に出来ないことがあるようなので、「Nちゃんはまだくるしいさんがいるみたいだね。いいよいいよ。言いたくなったら聞くよ」と言って、しばらくしたら泣き止みました。泣き止んだら、「あのね、ママが夜Nちゃんたちが寝るとき、パパのご飯作って、お片付けして、お仕事してるから」「それが心配だった?」と聞くとうなずいていました。「それに本当は一緒に寝たいよね」そういうと、機嫌の直った二人は遊び始めました。

 でも遅くなったけどお昼ねの時間です。私も最近夜遅い上、Sの夜泣きにも悩まされているのでお昼ねはしたいのです。でも寝すぎると夜遅くなるし・・・・。早く寝てもらいたくてイライラし始めます。「もう、はやくねなさ~い」言ってもSしか寝ないので、「もうどっちでもいい」といってSと二人で寝ていると、NもHも結局遅い時間になって寝てしまいました。

 そうするとおやつの時間に起こすのが大変・・・。何とか3時に起こしたけど、みんな寝足りないからボーっと全然動きません。イライラも極限に達し、
「もう、いい加減にしてよ!保育園からぐずぐず帰ってこないの自分たちじゃない。帰ってきて沢山泣いて、遊んで遅くなってから寝て!ママだって早く帰ろうって言ってたのに」
 別に子どもたちが悪くないことはよ~くわかっているのにとめられません。また泣きたくなりました。HとSは私がひどく怒っているので泣いています。別の部屋に行って一人でおいおい泣いていました。子どもになったような泣き方になりました。チャイルドが「いろんなことが不安だよ~」って言っているんだよね・・・。でもそう言い聞かせても、苦しくなってきます。

 なにこれ?ん?これ自分のことで泣いているんじゃない?お母さん?お母さんも一人で借金抱えて、子どもたち3人育てるのこんな気持ちだったんだね~。そんな気持ちもわかってきました。でもどうもそれで泣いているんじゃない・・・。あの頃そんな気持ちでいた母のこと、助けられない子どもの私が泣いているんだ・・・・。そう感じました。そしたら、す~うっと何かが解けていくような引けていくようなかんじで涙が止まりました。

 そして、あ、謝らなきゃ・・・。と子どもたちに謝りにいきました。「ごめんね」 もう遊んでいた3人は「い~よ」
H「ママはへなちょこだからね」(「へなちょこ」という言葉が最近お気に入りの3人)
私「そう、ママへなちょこだからすぐ怒って泣いちゃうんだよ」
3人「へなちょこママ~(笑)」
とみんな笑って許してくれました。それがまたほんとうに私はへなちょこだな~子どもに甘えすぎだよと思うと、また泣いてしまいました。まだまだ助けられるほうが多い私です。

 そんなことがあってもまた今日も同じような繰り返し・・・・。本当に落ち込みます。私の気分がおちつかないもんだから、みんな気を使ってくれているのにとてもうっとしく思えて、冷たくしてしまいます。子どもたちの我慢も限界、ぎゃーぎゃー言うことも多くなって悪循環・・・。抜け出さなきゃと思えば思うほど空回り・・・・。

 比較的、言葉で自分の気持ちや、姉弟の気持ちの代弁までできるHは、もう無理ってところで上手に甘え泣きしてくるので、今は安心できます。Nはその辺自分の気持ちを私に伝えるのが悪いなあ~と思っているのか、言葉には出さないので暴力が増えています。Sは言葉の発達が早いとはいえ、2歳過ぎのわがままざかり。自分の気持ちの表現が未発達のため、悪ふざけやおねーちゃん達に意地悪ばかりしています。私もパワーがないので抱っこも中途半端。みんなの気持ちを受け止めることが出来ません。

 この空回りから脱出できるのでしょうか? ほんと人のことどころじゃないですよね・・・・。うれしいお便りのはずが愚痴になってしまいました。明日は少しは楽しく過ごせたらいいのになあ~。

 またまた日が変わって・・・・
 少し早めに寝るようにした次の日は、ちょっと気分もよく怒ることも少なく・・・。そうすると子どもも落ち着く・・・。でも、そうすると、私が受け入れ態勢に入ったと見極めるのでしょうか? 段々、駄々こねをはじめます。一人めは余裕です。二人目、三人目は・・・・もう無理・・・。怒っちゃいます・・・・。

 Sの悪ふざけにとても手を焼いていて、たとえば、ゴミ箱をひっくり返してごみを撒き散らす。楊枝をばら撒き踏み潰す、ゴミ箱やものを投げる。おねーちゃんにしがみついて離れない(レスリングのよう)、食べ物を投げる、おねーちゃんを叩く(特に私がおねーチャンを怒っているときなどなど・・・・

 最近良く歩いていたSがめっきり歩かなくなり、ママの抱っこじゃないと駄目です。反抗期の突入もあってか、「~したかった~」など理不尽なことで1時間も泣いたりします。これに関してはHで経験済みなので、わりと許容できるというか駄々こねにつきあったりも出来ます。ただこの悪ふざけ、男の子は良くふざけるとも聞きますがちょっとひどいので、多分他の言い分があるのだと思っています。ただ、手紙を読んでいただいているとお分かりだと思うのですが、とにかく、今私にその言い分を聞いてあげる余裕がありません。少しは抱っこしてたりしたのですが、先にも書いたように中途半端ですし、その後の好転反応とでも言いましょうか?駄々こねや甘えが出てくるのでそこでまたつまずいてしまうのです。

 こんな場合どうしたらよいのでしょう・・・・。とにかく怒りすぎてしまうせいで、本当にHが私のようにいつもいつも怒りっぱなしなのにも、気になります。「ママが怒りすぎなのがよくないけど一緒に気をつけよう」というのですが、あまりに怒っているとまた私も理屈で責めたり怒ったり・・。さすがにそうするとしゅんとしてしまいます。Nは逆に言葉が少なくなったかもしれません。私が理不尽に怒ったりその後謝っても泣かなくなりました。みんなそれぞれ我慢してるんだと思うとそれがつらくなったりもします。


〈第2信〉

 W様
 いつもお忙しいのにお返事をありがとうございます。

 Wさんに助けてもらうのではなく、自分で乗り切るのだということは分かっているのですが、こうして文章を書くことで自分自身の気持ちに整理がつくこと、気持ちを忘れずにいたいということ、誰かに認めてもらいたいということ、そして、いつか母に読んでもらいたいなどの思いで書いております。そんな気持ちにいつもこたえてくださり本当に感謝しております。

 今日Wさんからのお手紙が手元に届きましたが、おととい、すばらしい体験をしましたのでお便りさせていただきます。

 抱っこ法を知ってからというもの、良いも悪いもいろんな気づきや気持ちの変化が怒涛のように押し寄せてくる毎日です。今までこんなに毎日が苦しかったでしょうか? 楽しかったでしょうか? いろんなことに気づいていたでしょうか? きっと同じように苦しかったり楽しかったりしたのでしょうが、気づきに意識的になるということは、生きている実感を与えてくれるような気がします。

 Wさんに前回お便りしてからもずっとイライラの毎日、「自分が変わらなきゃ子どもも変わらない」と思って、肩の力を抜こうと努力したり(笑)、でも、それは本来の自分ではないので余計にイライラしたり・・・。どうしても子どもの爪噛みや指しゃぶりが自分を責めているようで許せなかったり。

 いつものように怒りすぎてしまい、しばらく、子どもと距離を置いていましたが、子どもたちが先に謝ってきたので、「ママも怒りすぎてごめん」と謝ったのですが、Hに、「いいよ。どうせ、そのうちママのことなんて忘れちゃうから」といわれてしまいました。もう、ショックで。何気なく言ったことなのでしょうが、それから何もする気にならなくなりました。

 その日は夕食まで子どもたちとほとんど口をきくことなく、何か言っても「どうせママのことなんて嫌いなんでしょう。忘れちゃうんでしょ」とすねていました。夕食も食べる気にはならないので、子どもたちだけ食べさせ、私は、ビールを飲んでいました。泣けてきました。NもHも、「ママどうしたの?何で泣いてるの?」と言ってきます。
「だってHがママのこと忘れちゃうっていうんだもん」
Nが「Nちゃんはママのこと好きだよ」とか、Hも「そんなにがんばらなくてい~よ」とか言ってくれるのですが、気持ちがおさまりません。もう今日はどうでもいい。どうせ駄目母なんだから飲んだくれてしまえ!!子ども放っておいて泣きに入ってやる~(いつもと変わりない気もしますが・・・・)。

 ふと目に付いた部屋の隅っこ。子どもの頃はいやなことがあると部屋の隅から出て行きませんでした。チャイルドになりきってみよう。そう思いました。子どもたちは3人で遊びながらも私のことが気になる様子。NとHはおもちゃの電話でお話しています。私がしくしく部屋の隅っこで泣き始めるとどちらかが、「あ、ママが泣いてるからちょっとまっててね」といって、私のほうにやってきて「どうしたの?」とやさしく声をかけてくれます。それがうれしくてまた泣けてきます。

 さらに泣くための材料を探して、記憶はないのだけど、子どもの頃こんな気持ちもあったのかもね。と思い「お母さん、行かないで。そばにいてよ。置いて行かないで。寂しいよ」と口に出していってみました。そうぐっと来ることもないのですが、言ったことのない言葉なのでくすぐったい感じです。

 何度も子どもたちが様子を見に来てくれるのですが、それでも気分は良くならないので、別の部屋に行って寝てしまおうと思ったのです。布団にもぐり泣いていると子どもたちもやってきました。すっとHが添い寝をしてきます。そして、頭をなでてくれるのです。NとSはたまに私の頭をなでにきながら、二人でキャッキャッしていたと思います。Hにどっぷり甘えようと思い、「どこにも行かないでよう。寂しいよう」と泣きました。するとHは一言も言わずずっとずっと頭をなでてくれたのです。私なら、「はい、もういいでしょう?」と言ってしまいそうな長い時間です。そしたら、自然と私の顔に笑顔が戻ってきました。こんなこと初めてです。本当にこうなるんだ、と思いました。

 起き上がって、「ありがとう。沢山泣いて、よしよししてもらったらニコニコ虫が来たよ」と言ったら、3人の子どもたちの喜んだの何の。「やったやったあ!」といって3人がめちゃくちゃに私の頭をなでてくれるのです。こんなにしてもらったことは今まで生きてきてありません。

 今まで、子どもに慰めてもらうことはありましたが、悪いなあと思う気持ちから、「ありがとう、もう元気になったから大丈夫」と言っていました。本当に自然に元気が取り戻せるのですね。理屈では分かっていましたが身をもって体験できたことは私にとってすごいこと。

 いつも心のどこかで、「どうせ私なんかどうでもいいんでしょう?」という感覚があって、それが怒ったりしたときに必ず顔を出してしまっていました。その30年以上すねていた気持ちを慰めてもらった感じがしています。何も言わず、ただただ、頭をなでるという行為がこんなにも人の心を軽くするなんて・・・。しかも3歳の子どもにそれが出来るというのはどういうことなのでしょう? 子どもはみなそういうものなのでしょうか?

「慰めてもらって自然に元気になる」
 これを子どもの頃に体験している人は、親になっても私のように落とし穴にはまることは少ないのでしょうか? 子育てしやすいのでしょうか? とは言っても、これを体験したからといって怒ることが少なくなったかといえばそうでもないようです(笑)。でも、やっぱり確実に何か違います。どうやっても元気になれなかった心が自然に笑顔になった感覚が忘れられません。

 次の朝うれしそうにパパに、「昨日ママを沢山よしよししてあげたんだよ」と報告していました。私が「ありがとうね」と言うと、「だってNちゃんたちが泣いたときママがずっとよしよししてくれるでしょう?」
 そうか、自分では十分にして上げられていないと思っていたけど十分そう感じていてくれていて、もうちゃんと、「慰めてもらって元気になる」を体験しているんだ。そう思うと本当にうれしく思います。きっと強くやさしく生きていけるのだろうなと。

 まとまりのない文章ですみません。また、何かありましたらお便りさせていただきます。
 ではお体大切になさってください。


〈第3信〉

 W様
 今日はお電話ありがとうございました。

 せっかくなので「こんなこともありました」というお話を書いてみます。本当に子育てしていると、毎日毎日いろんなことを感じさせられますね。

 先日、いつもの公園に子どもたちをつれて遊びに行くと、週1回行っている保育園のお友達もスタッフたちと一緒にみんなでやってきました。一緒にお砂場で遊んでいると、人懐っこくしっかりした子Cちゃん(多分2歳後半だと思います)が、私にとても良く話しかけてきたり、お片づけを手伝ってくれたりとてもやさしい子だなと感じました。Hに「Cちゃんてやさしいよね」というと、最近「何で、どうして?」の多いHは、「うん。やさしいね。何で、やさしいの?」と私に聞いてきます。私は「何で?」攻撃には「何でだと思う?」と聞き返してみることにしていますので、このときも私は、「何でやさしいのかな?」とHに聞いてみました。「あのね、みんながCちゃんに優しくするからじゃない?」すばらしい答えですね。わが子ながら最近のHの感性には脱帽です。本当にどきっとさせられます。

 Hの言うとおり、人は優しくしてもらうと人に優しくすることが容易になるのだと思います。私にとって、「人に優しくする」というのは苦手なことです。例えば、パパが居眠りしていたら、そっとお布団をかけてあげたりが、ちょっと恥ずかしい。そう、私はそういうことをしてもらったことがないのです。やさしさには色々な種類があって、それなりに私もいろいろな優しさを経験しているのだと思うのですが、この類のやさしさの経験は多分ないのです。

 以前、主人の実家にお泊りのときのこと。そのときは、私が風邪気味でゴホゴホしていました。早めに寝ようとお布団にはいっていたら、義母が薬を持ってきてくれました。「市販薬だけど飲んでおいたほうがいいよ」といって、コップにお水も入れてきてくれました。そして、すっと台所に去ったのですが、薬を飲み終わると又さっときて、コップと薬のごみを受け取りに来たのです。

 私は、感動してしまいました。小さい頃、親にしてもらっていたでしょうか? してもらっていたのでしょうが記憶がありません。本当にうれしく思いました。おとなになってもそういう風にやさしくしてもらうことは大切にされていると実感しますね。義母は当たり前と思ってしていることでしょう。やさしさってそういうものですね。

 主人の実家で過ごすことは良くあるのですが、結婚して、しばらくは当たり前ですが、なじめなかったり、お互いになじもうとしすぎてうまくいかなかったり、トラブルもありましたが、結婚して、私の育ってきた環境とは違う家庭の温かさを感じることがあります。それは、自分の育った家庭を否定しているのではなく、結婚することによってもうひとつおいしいものを味わえるという感じでしょうか?

 きっと人との出会いによって、今まで、私には困難だった優しくなるということ、謝るということなど出来るようになっていくのですね。

 これから先もずっとずっと人と関わり続けていくことが、自分を成長させ幸せに導いてくれるのでしょうね。

 長々とお読み頂きありがとうございました。また、お便りいたします。