自己否定を乗り越える

よい親でありたいという思いがあればこその自己否定。「こんな自分はダメだ」と思ってしまう気持ちを、「そうも思ってしまうよね」と肯定すると、否定ぐるみの大肯定に変わる。

「責めなくていいんだよ!!」
「和く輪く舎御中」
「光が見えてきた?」
「芯が冷たい」
「自分を愛したい」
「小さな私に出会えた」
「呆けた母の‘大好き’」
「たまねぎの皮のごとく」
「ろうそくの火」
「私の“事件簿”」
「ひたむきに頑張っていきます」

「責めなくていいんだよ!!」

 前略ごぶさたしています。あれから忙しくなって天心ワークショップに行けてませんが、みなさんお元気ですか。

 私は相変わらず居心地のわるい体をもてあましている、今日この頃です。自分の中が居心地がわるいので、誰とも心がかよわず、何をしてもむなしいと感じていました。「不安」という乗客のために、人生を、生活をのっとられているような日々。不安を感じないために、もーれつに動いたり、そしてむなしくなったり・・・。この不安を解消するためには、~こういうことをして、~こういう時間を確保しなければならず、コミュニケーションの仕方を変え、自分にばかり向いている意識を変えて、むだなエネルギーを、役に立つエネルギーにしなければいけない。自分を否定し責めていて、その上、やらなければいけないことが、山のようにある感じでした。リラックスするだの、肩の力をぬいてだの、一生懸命になるなだの、当座できそうにないことでした。

 あるとき、過食、拒食症の人の記事に、「あなたの病気は自分を責めているところだけだよ。変わらなくてはいけないなんて言ったら、あなたがかわいそうだよ。症状があっていいんだよ」と書いてありました。それまで「本当の気持ちがわかる本」だの、「あなたの気持ちがラクになる本」だの、そりゃあもうたくさん買って、読む時間をみつけるためにあくせくし、それを実行するために息をつめて、うんざりしていました。そんなときにこの記事を読み、「ああ、もうこれで充分だ」と思いました。これにはこれがよくて、こうなったらこうと、いいものわるいものという世の中、頭の中の常識全てとひきかえに、もうこれでいいと思えました。

 そんなとき2才になる子どもが、園でパニック?(という程じゃないんですが)になったという話を聞き、私の中であれがいけなかったのか、これがいけなかったのかと考えました。帰ると、何かのひょうしに大泣きをしはじめ、この頃ごぶさただった「抱っこ」をしてみるかと思いました。イヤダ、イタイとのがれようとするので、やっぱりこういうのも私の思いこみかと思って、やめようかと思いましたが、なんとなく今日はやった方がいい気がして、ひっかかれ、なぐられながらつづけました。苦しくみえたので、「くるしいね、くるしいね」と言ったらすこしゆるんだのか、ワーっと泣いて、なぜだか「○○はわるくないよ」「○○のせいじゃないよ」という言葉が口からガーっと、とまりませんでした。

 そしてまた、激しくあばれて、ワンワン、ワンワンとぬいぐるみのところへ行きたそうだったので、もういいかなと離れてあげました。ひざからおりてワンワンの方へ行こうとして立ち止まり、ふりかえって、切なそうに私のところへ戻って泣きました。そのときの顔が忘れられません。私が私にできるのは、体の中でおそろしいことがおこっている感じ、もうここにいるのをやめた方がいい感じ、逃げたい感じに、あれこれ理由をつけずに、何度でも抱っこ(感じて)して、はなさないようにしっかりうけとめてあげることじゃないかと思いました。子どもはそう言ってたような気がします。

 そのかわり、どんな思いを抱いてもいいよ。楽しいとか、すっきりしたとか、ためになるとか、そんなことじゃなく、なんの目的をもたずに、瞬間瞬間、いいとか悪いとかではなく、湧く思い、ついしてしまうことも含めて全て、責めないこと・・・、判断しないこと・・・。体はきついけれど、なぜか、人のオーラがやけに見えたり、その人がこれから言うことがわかったり、インスピレーションが強くなり、創造力もわいてきます。だからといって、すっとんでしまわないで、そういう部分を自分の一部として大事にしながら、かぎりなく、友だちのあたたかさ、みんなの思いやりが近いところで、汗をかいたり、ごはんをつくったり、肩がこったり、イライラしたり、冗談を言ったりしたいです。

 長ーくなってしまいました。読んで頂いたことに感謝します。おちついて時間がとれたら、1日ワークショップなどに行きたいです。みなさん、お元気で。

「和く輪く舎御中」

〈第1信〉

 ごぶさたしております。確か、私がムスメと、おじゃましたのは、昨年の6月、だったでしょうか? ムスメ(4才)は今年の4月、幼稚園に入園し、下の子(2才)は時々、近くの託児所へ預け、ハネを伸ばしています。~~パタパタ。あれから、知人を通じて心療内科へ通ったり、ママサークルにも行ってみたりと、いろいろやりました。で結論、「私は私のやり方でいいし、私の楽しめる方法がいいのだ」というところにたどりつきました。子どものダッコ以前に、私自身へのダッコ(ゆるす、とか、自分への共感、とか)がたりないから、とても子どもを受け入れ、共感する、なんて、できなかったんだな、と。

 今、テッテイ的に自分を甘やかしてマス。疲れたら、疲れた、という、子どもから離れる時間をとにかく作ってしまう(理由なんて作らずに)、それで一人で甘い物たべる、etc・・・。すると、怒る時間が短くなり、子どもの心を感じることが、何となく「できて」くるんです。おっしゃっていた一言一言が、「ああ、こういうことだったのか・・・」と心にしみこんでくるんです。私は、世間一般でいう「母」のひとくくりでなく、私として2人の子の「母」をやっていけばいいのだ、と、思えるようになってきました。そう思う事に罪の意識を感じる必要もない事も。

 でも、こうなるためには、これまであったいらいらや、あせり、怒りが、あったからだ、と、全てをまるごと引き受ける、というか認める・・・何ていうのか、全て必然だったんだなあ、と思います。私にとっていいことも、嫌なことも、全部、必然だった、と。誰が悪いんでもないから、あせることもないし、べき、べからずもないし、お互い、やりたいようにやっていい、と。(人にメーワクはかけないよーに、ですが)あぁ、こうして書いていても、本当、目覚めからイラ立つ事がなくなりました。ここにきて、やっと。やっと、やっと、私の子育てが始まるんだわ、と楽しく感じるようにすら、なっています。すごい!私!!自分!!「自分をほめたい」と言ったマラソンランナーや、「しあわせはじぶんのこころがきめる」と書いた毛筆家の詩人の 残した言葉が、しみじみしみこんできます。これからもいろんなことがおこるんでしょうが、その時その時、自分のしたいようにやっていけばいいだけ。楽しくやっていけばいいだけです。人生って、なん~~てもぉ、シンプル!これからも楽しみます。まとまりませんが、お礼のことばと受けとめて頂ければ幸いです。では、また。

PS.今だって怒るけど、目的もって怒っています。怒りにふり回されることは、少ないです。まちがったら、謝ります。だって私は聖人・君子じゃねーもんねー、だ!


〈第2信〉

 かわいいおハガキありがとうございました!
 そちらへおじゃましたのは、ムスメと2人だけでは始めての遠出でした。もー、いっぱいいっぱいで、オットの実家に下の子を預け、ネットで錦糸町までの道のり調べたり、大冒険でした。

 ムスメは思ったよりグズグズ言わずについてきたし、高速バスでは緊張した様子もなく、車内のトイレをとても気に入って何度も入ったり。(すごく狭くて、ベンキが小さくて、たのしいらしい)やっぱり、いい、悪いは別として、私の心の置き方に問題があったのかなぁ、と思います。ムスメ、ムスコはずーっと「ムスメ」「ムスコ」で、何も変わっていません。「私」が「私」→「妻」→「母」という変化を強いられている、と思い込んでいただけのことでした。「私」は「私」でいいんだ、と納得したら、楽 でした。それを納得するのに 4年かかりましたが、まぁ、気付いたからいいか、と。

 和く輪く舎にもようやくお返事を書く事が出来、スッキリしました。これからも『和く輪くだより』を楽しみにしています。では、また。

「光が見えてきた?」

 最近自分を観察していて気付いたことがあります。私は自分を「ダメ」だと思いやすいのだけど、マイナスの出来事があって、気持ちを感じるその瞬間にはもう、「自分のせい」いう思いがわいてきているんです。0.1秒くらいの感じで。それが、本当に、しょっちゅうあるんです。

 もちろん、私の責任という時もあるけれど、自分の力では及ばないどうしようもないようなことが起きたとしても、「自分のせい」というのは必ずくっついて出てくる思いなんです。そんなことがわかってきたので、この頃私は自分がかわいそうになってきました。いや、けなげと言うべきか・・・いつもダメだという気持ちにさらされているのに、くじけそうになりながらもなんとか生きようとしているんだなあって。何ともけなげで愛おしくなります。これって今までにない感覚なんですよね。大きな自分が育ってきたのかなあ。

 実際の私は、イライラしたり、家族に怒りをぶつけてしまうこともまだまだあるけれど、ぶつけたあとに、「ああ、また下手くそなやり方でやっちゃったねえ」「新しいやり方を身につけるのはむずかしいよねえ」と自分に向って言えるようになってきたんです。これは、とてもうれしい変化。(でも家族にとっては同じかも?私としては、ずいぶん変わっているんだけど・・・)

 自分はダメだとずっと思ってきたけれど、いろいろ解きほぐしてきたら、そうでもないかもしれない、と思えるようになりました。まだ100パーセントじゃないけれど、光が見えてきた感じです。それが嬉しいです。でも何よりも嬉しいのは、自分を導いてきたのは私自身だったと思えること。ここまでたどり着いた私ってすごい。抱っこを知ったのも大きかった。本当にありがたいです。

 これからもよろしくお願いします。

「芯が冷たい」

 体験談の「自分探しと癒しの子育て」を続けて読んでいて、自分のダークな部分を認めることの大切さが伝わってきました。ダークな気持ち、なんて言い方はいいのわからないけど、ネガティブな気持ちや人を憎んだりする気持ちなんかをまとめて言う言葉かしら。いくらいやな、つらい気持ちだとしても、それも自分の一部だから認めて、‘それも含めた自分’を自分と見ていくことに気づいているんですね。そうするとまた一歩前に進めるみたい。そして、そのネガティブな気持ちなんかをじっくり味わう。つらいけど、それも大事ですよね。だからYさんが悲しい気持ちの中にいると聞いて、今までの私だったらどうやって励まそう、とかどういう言葉をかければホッとしてくれるかな、なんて思ったけど、今日は見守ることに喜びを感じることができました。Yさんも味わっていることだし。

 梨木香歩さんのヤングアダルトの本に「裏庭」というのがあります。私はうまく読み込むことができなくて端折って読んでいました。それで他の人はどのように感じているのかしらとネットで検索してみたら、「そのダークな気持ちを自分のものとして気づかせるお話し」とコメントしている方がいて、なるほど~と思いました。

 また、体験談のあるお母さんのお話で止まってしまいました。下の子が生まれてから上の子に気を遣って、「ママを取られた気持ち」に共感してきたけど、それでは下の子はたまらない…というような内容でした。

 もともとの、「生まれてくれてありがとう」がなかったんですよね、私も…。そして小さい私も。だからなんだか生きていていいのかなとか思ってしまうし、生きているという実感もないし。

 長女の誕生の時、なんだか人ごとだったの。いろんな人の出産時の話を聞くと、それはそれは感動したような話をよく聞くけど、私の場合は、生まれてくれてありがとう、という気持ちが起こらなかったの。それは次女の時も3番目の長男の時も。人によって感じ方が違うからなぁと納得させてたけど、なんだか違うんじゃないか、とも思っていました。

 次女が生まれたとき、とにかく長女が心配で心配で。お母さんを取られてさみしい思いをしないように、それはそれは気を遣いました。そのころはまだ癒しの子育てを知らなくて、赤ちゃんは何も知らないからほっておいても大丈夫、なんて話を信じていたから、次女をほったらかしにしていました。そのお母さんのお話しを読んで、そのことを思い出しました。あ~Tちゃん、ごめんね~(ここで次女のことをさらっと流してしまう私)。

 そこから自分に目を向けてみたの。そしたら母のおなかの中にいるイメージが出てきて、そしたらね、「生まれちゃだめ!」って。とても悲しくて重い気持ちになってしまいました。あ~また涙が出てきました。今はここでストップです。ここで、「生まれちゃだめ」を繰り返し思って涙を流しています。その思いを味わっています。

 私の自分探しは、たまねぎの皮のようにちょっとずつなんですよね。いじけ虫くんになって味わってみたの。そしたら「どうせ私の気持ちなんかわかってくれないじゃんか」って母に文句言ってた。そしてね、呆けてしまってからは文句を言わなくなったんだけど久しぶりに言ってみた。
「どうせ私の気持ちなんかわかってくれないじゃんか」
って。
「自分は呆けちゃって自分の気持ちに正直になっちゃって、ずるいよね」
とか。
これも今日はここまで。この後はなんだかどうしていいのかわからなくなっちゃって。まだまだ気持ちちゃんと仲良くするのが苦手です。

 先日、2泊3日のキャンプに行ってきました。2日目の日は近くの浴場へ出掛けたのですが、足裏マッサージがあって、値段も手頃なのでやってみることにしました。そしたら、「体の芯から冷えてますね」と言われ、その言葉を受けて、私の心の芯も冷え切っているよなぁと思いました。ここの心の芯、とはコアとは違うと思うんだけど、何かにつけて難癖をつけたがる冷めた部分があって、そこの部分。いじけ虫もお隣にいるかも。今はそれが中心にあるから、芯なのかしら。あ~心の芯ではおかしいか。そういう部分もあるってことかしら。真ん中じゃ、ないな。これは何かありそう。ゆっくり味わってみます。とにかく、そのマッサージの人の言葉が妙に納得できて、それでその冷たい部分を大事に思う事ができたのでした。

「自分を愛したい」

 この間、昼間テレビを見ていたら、堂本剛さんが言った言葉に、涙がボロボロと出てきました。

「期待に応えようと頑張って、イヤなことがあっていっぱいになったとき、故郷に帰り、空を見上げ、その空にイヤなことを全部預けてきた。そして空っぽになった心で東京に向かった。でも30才になって、その空に預けていた気持ちを自分に取り込んで、自分のものにして、それを大事にしたい。そういう自分を愛したい」

 この堂本さんの言葉は、話していたそのままでなく、私の主観も入っています。言葉の中の「気持ちを預けた」というのも、きっと始めは預けたのではないようなのです。否定的な気持ちだから、いらないと思っていたみたいで、それが30才という年齢になって、その気持ちも大事な自分の気持ちだと気づいた、そんな感じでした。

 どうしてもこの自分ではいけない、という気持ちと仲良くできなくていらいらしています。この自分ではいけない、だからこうしなくちゃ、ああしなくちゃ。そうじゃなくて、今ある自分を愛していいんだよ。もう何度こう思ったことでしょう。癖になってしまっているのでしょうか、もう長年そうやって生きてきたから仕方ないのでしょうか。もう、すべてを許して、いいんだよ、という気持ちに、一瞬にしかなれない自分がもどかしい。このもどかしい気持ちとも仲良くすればいいんだけどね。

 不完全な自分を認めることが、苦しいです。

 堂本さんは今回こういうテーマでアルバムを出したようで、この間、お店に行ったときに見てきました。切ない気持ちになってきました。買いたかったんだけど、お給料前だし、3千円は私の中では高価なので、レンタルが出るまで待とうかな、と思いました。

「小さな私に出会えた」

〈第1信〉

 はじめまして。五歳の息子がいます。お聞きしたいことがあり、メールをさせていただきます。私が育てていると、子どもがどんどん悪い方向に育っている気がして、不安でたまりません。まず、私が変わらなければと思っています。『魔法の子育てカウンセリング』を読ませていただき、自分でも気づかなかった思いに気づけて、体全体で泣きました。その日は、少しだけこころに余裕ができて、精神的に初めて親になれた気分でした。ところが、昔からの習慣で、また否定的な考えがどんどん出てきてしまい、毎日自己否定を繰り返しています。

 天心に参加させていただきたいなと、思っているのですが、できれば、一日も早く自分を変えたいのです。今年度、幼稚園の役員になってしまい、子どもの頃から、役につくことなどから逃げていたので、とんでもなく恐ろしく、夜も眠れなくなってしまい、どうにかしなくてはという気持ちで一杯なのです。近くに個別セッションをしてくださる方はおられるのでしょうか?


〈第2信〉

 阿部先生、先日はお忙しいところ、連絡先を教えてくださって、ありがとうございました。お礼が遅くなってしまい、申し訳ございません。

 先日、子どもと一緒に、抱っこのセッションを、受けさせていただきました。息子は、着いてすぐにダダこねが始まり、そのまま抱っこになりました。大暴れして、大泣きをして、溜め込んでいた感情をはき出していました。私一人だと、途中であきらめてしまうのですが、援助をしていただき、最後までできました。
 そして、子どもが寝たので、私のことを聞いていただいたのですが、いろいろと考えてしまい、頭の中がごちゃごちゃになって、なかなかイメージすることができず、充分感情を出すことが出来なかった気がしてました。

 数日後、幼稚園の役員会があり、他の役員の方たちは、すごくしっかりされていて、役を引き受けてしまったことを、さらに後悔していました。そして、家に帰ってから、セッションのときに教えていただいたことを思い出し、自分の心に聞いてみました。いくつか言葉を選んで聞いてみると、「早く大人になりたい」(年齢的には充分いい大人なのですが・・・)とか、「大きくなりたい」というと、胸の奥から、ドッと何かが出てくる感じで、何度も繰り返し言い続けながら泣きました。すると、初めて自分の中にいる小さな私に出会えたのか(表現があっているのかわかりませんが・・・)、女の子がニコニコ笑っていました。それから、「お母さんを安心させてあげたい」(母には心配ばかりかけてきています)という気持ちが出てきて、最後には、「お母さん大好き」と言っていました。息子も、私のことをこういう気持ちで思ってくれてるのかな?と感じました。

 阿部先生に教えていただいた、「自己否定の気持ちに全部ありがとうと言ってあげる」なのですが、心からありがとうとは言えないのですが、「今まで生きてくる為には必要だったのよね」と思えるようになってきました。まだ、親心は立っていないけれど、なにか、心のふたと言うか、扉を少しだけ開けた気がしました。少しずつ本当の自分を取り戻していきたいです。

 次は天心に参加する日を楽しみにしています。

「呆けた母の‘大好き’」

〈第1信〉

 今日、母の所に行ってきました。帰りに、ケアマネージャーさんと話していたら、母のステキなエピソードを聞かせてくれました。

 父が生きていた頃は、車でいろんな所に出かけていました。父はドライブが好きだったのです。それでよく母を乗せて出かけていました。その事を話すそうです。それから、最近父に似た人が入居してきたそうで、その人のことを‘お父さん’と呼んでいるそうです。そんないろんなことがあって、ケアマネさんが「お父さんのこと大好きだったんだね」と言ったら、「そうだよ」と言ったそうです。

 父が生きていたときはいつも父の文句ばかり言って、本当に憎たらしそうでした。でも、父が死んで、せいせいしているのかと思ったらそうでもなく、挙げ句の果てに呆けてしまいました。だから、文句は言っても、頼りにしていたのは事実だな、と思っていました。

 それが、‘大好き’だなんて認めちゃって。私はうれしかったです。そして父のためにも。呆けてしまって、でも心の底の正直な気持ちが出てきて、それを言葉で言うことができて、よかったなぁと思いました。ほんとに、うれしい。

 やっぱり、大好きって言えるのっていいですね。


〈第2信〉

 母の‘大好き’の言葉。あとからじわじわっと来ました。そうです、深いところで繋がってきたんです。いままで否定してきたことが、だめだったと思っていたことが、オセロの駒のようにパタパタっとひっくり返った感じ。まさに、父を否定し、母も否定し、その中で生きてきた私が、父の存在を認め、私が存在していることが悪いことでなくすばらしいことで、今まで生きててよかったんだって。自分はだめだって思ってきたけど、存在しててよかったんだって。今になってやっと、涙が出てきました。

 まさに愛ですね。弟にも広がればいいのになぁと思いました。

「たまねぎの皮のごとく」

 援助者「……そんなMちゃんを自慢って思えることもうれしいよ。うん?ということは、そんなMちゃんを育てたママ自身を、自分で肯定できているよね」

 う~ん、そうなのかなぁ。まだまだ「赤ちゃんのときから(妊娠中から、かな)もっともてる愛情を伝えてあげていたら、Mちゃんはもっともっと、輝いていただろうな~」って思うこと、ありますよ。なんだろう、そうそう、その負い目があるから、Mちゃんが素直に泣いてくれると、私が救われる気がして。あぁ、私はあんなかかわりしかできなかったけど、この子はここまでよく頑張ってくれたんだな、って。自分の罪がちょっと許されるような?そんな感じです。そしてそれは、私の力ではなく、この子の生きる力の強さだ、って。

 子どもから、本当に多くのエネルギーを、もらっているんですよね~。二人を連れて買い物にいくでしょう。やっぱり小さい子がいると、皆さんこちらを見てくださって、そうすると自然と誰にでも「こんにちは~!」って私も笑顔で言えるし、そこから見知らぬ人との世間話にまでなったり。レジのときでも「お願いします~」って大きい声で言えるんです。

 でも、たまにふらっと一人で行くと、声をかけてくれる人なんてまずいないし、にっこり笑いながら見てくれる人も、もちろんいなくって。レジのときも、「お願いします~」の声の張りが違うんですよ。ちょっと、遠慮がち、目も逸らしがち、みたいな。(笑)

 そういう違いを感じるとき、子どもがいるからこその私の強さを、感じて、この子達がいるだけで伝わってくる愛みたいなものがあるんだろうな(愛、と断言するにはまだ自信が・・・)って思います。

 あーー、そうだ! 私がここまで自分と向き合おう、自分を許そう、受け容れよう、成長しよう、ってこんなにも思うのも、やっぱりこの子たちが来てくれたからこそですよね。あ~~っ!ひょっとしたら(案の定?!)、そこにはやっぱり、私と、あの子たちの愛が、いっぱいあるからこそ、なのかも。

 昨日ご飯のときMちゃんが、「ママ、Mちゃんのこと誰かにあげちゃったりしない?」って聞いてきました。「あったりまえでしょー!誰にもあげないよ~!」と答えると、「・・・・どうして???」とMちゃん。「だって、大好きだから誰かにあげちゃうわけないでしょ」と私。

 目をふわっと天井に向けて、「ほわーーー」といって嬉しそうににやけたMちゃん。その後「誰々ちゃんのママがMちゃんくださいって来たら?」と聞き続け、そのたび私は「ぜったいぜったい、あげないよー、大事なMちゃんだもん!」と言い続け、最後には二人を抱っこして、「二人とも大事で大好きだもーん!!」とくすぐりあってじゃれあって大笑いしました。

 とっても満足そうな二人、「ママ、大好き~!」って言ってくれました。まだまだ、肯定できない自分、自信ない自分、ダメの壁に体当たりする自分、いろいろいるけど、大好き、幸せを感じていいって思える私、それがこんなに増えて、とっても嬉しいです。

 本当にたまねぎの皮のごとく、とはこのこと・・・・。一枚一枚は薄くて、また次、また次と、バスジャック、涙、イライラ、いろいろあるけど、核心にはちゃーんと、近づいているんですね。

 一人ではここまでこれなかったな、って思います。周りのみんなのおかげ。芳子先生、いつも本当にありがとうございます。

「ろうそくの火」

 昨日はとっても暑い1日でしたが、今日は朝曇っていて、少しホッとしました。でも今、少し日が差しているので、これから暑くなりそうです。夏休みもあと一週間、やっと暑くなってやっと夏休みらしくなってきました。残暑が厳しそうで、ちょっと憂鬱。

 体の芯が冷えている、ということで、どうすればいいのかなと思い(体の方)、半身浴がいいということを知りました。というか、知っていたんだけどちょっとめんどくさくてやらなかったんです。思い切ってやってみることにしました。

 私のやり方は、お風呂で体を洗い終わった後、胸の下あたりまで20分お湯につかる、というものです。その20分の間、天心らしきものをやることを思いつきました。おーこれで半身浴も続けられそう…。テーマを決めているときもあるんだけど、いざ天心してみると、その時心に引っかかっていることが頭にあって、そのことを感じてみることもあります。

 何にもないようなときでも、何かが引っかかっているようなときはなかなか入り込めなくて、それはそれでいいか、と思いながらやっています。それで昨日は、この間から出会っている気持ち「生まれちゃダメ」からやってみました。

 その前に、またまたいじけ虫がやってきまして、このいじけ虫はいつもと違うのか、それともいつもの変形なのか、とうとう‘死んでしまいたい’まで行ってしまいました。

 Yさんが悲しい気持ちに浸っていてよかった、なんて言っておきながら、自分がつらい気持ちになると本当につらい。つらくてつらくて、死んでしまいたいくらいでした。
「どうして生まれてきたんだろう」
「何を楽しみに生きていけばいいんだろう」
「生きるって何」
などなど、‘生きる’ことをずっと考えていました。なので、昨日は「生まれちゃダメ」から入ることにしました。

 それで、どうしてここまでたどり着いたのかあまり覚えていないのですが、座布団に暗い気持ちをまとった私と、「生きたい」と思っている私が座っていました。

 わりとすんなり座ってくれたんだけど、暗い気持ちの方は、部屋全体を暗くしないと座ってくれませんでした。なので部屋が真っ暗。となりで「生きたい」気持ちは手にろうそくを大事そうに、火が消えないように持っているの。暗い気持ちが「生きたい」気持ちを見るんだけど、なんだかうらやましそうなの。火を見て、ホッとしている感じ。「生きたい」気持ちはおどおどしながら火をちょっと差し出すの。よかったらどうぞ、という感じで。そう、暗い気持ちは「申し訳ないねぇ」という気持ちになってね、少しだけ部屋が明るくなるの。でもね、「生きたい」気持ちのことをうらやましく思う反面、怖い気持ちもあるらしくて、どうしても近づけないらしい。「生きたい」気持ちが怖いんじゃなくて、そこに近づいて、自分がそうなってしまうのが怖いみたい。

 昨日はここまででした。なんだかおもしろかったよ。

 死んでしまいたいと思った時ってその反面、どうすれば気持ちが楽になって生きやすくなるかなと思います。たまたま昨日本屋さんに行ったのですが、どうしても、「楽になる生き方」とか「がんばらない生き方」なんていう本に目が行ってしまいます。

 その時、なんだか違和感があって、いや、私は死にたいんだよ、生きることなんかどうでもいいんだよ、って。そしたらスッと楽になった。ダークな気持ちを、認められたからかなぁ。ホントに死んじゃうわけじゃないからね。

 「生まれちゃダメ」の気持ちが出てきたとき、こりゃ天心に出掛けないとだめかな、と思っていました。そしたら秀雄先生の「その時々のメッセージ」を読んで、そうだ、“奇跡を起こすワーク”をやればいいんだ、と思いました。ちょっとずつ、やってみようと思います。

「私の“事件簿”」

 鷲尾先生、こんにちは。先日はお世話になりました。
 この間の「天心」の中で、……自分で自分の頭を撫でながら、「自分のことを認めてあげよう!」としている私がいること。そして、その一方で、「イヤ! 私はやっぱり、“ダメ人間”! 認めてなんかもらわなくていいの!!!」と言っている私も健在。…の2つを同時に体験できました。“どちらの私もいていいんだよ! どっちのHちゃんも、カワイイyo!”なーんて、ちょっぴり自分のことを愛おしく思いながら、「天心に行こう!」と誘ってくれた息子にありがとうを言いながら帰ってきました。ウフフ…

 そんな☆すてきな時間☆を過ごしていたはずなのに、また、また、「事件」(?)が起きました。夜中の2時に「コワイ、コワイ」が始まって、目覚めました。理由は2つ……、わかっていたんです。1)おまんじゅう大 を一度に3個食べてしまったという罪悪感(「えーっ?そんなことで…???」って思わないでください。太っているくせに、太ることが恐怖の私にとってはとても深刻なのです)。2)息子の筆談が上手くできなかったこと。……でした。

 血相を変えて主人の布団にもぐり込み、主人を起こして「助けてーーーっ 」と訴えました。主人は、目をこすりながら付き合ってくれましたが、私の気持ちは楽にならず、自分の布団に戻りました。

 いつもなら早くこの状態から逃げ出すことばかり考えてしまう私なのですが、この時は、ふと、“そうだ! 天心の時みたいに、自分の体に聞いてみよう…”と思えたのです。そして、前日の天心で、魂の安まる部分であった“肩甲骨”に触ろうとしたのですが…、自分の手では届かず…、『あーっ 使えない。 W先生ーーっ 』と叫びながら、右手で自分の頭をなでなで始めました。

 「オリコウ、オリコウ。Hちゃん、オリコウ!」と…やってみたのですが、んーーっ …これもその時ピン!とこなくて。「だって、私は、あんなに大きなおまんじゅうを3個も食べちゃったし、息子との筆談でイライラして、息子に大当たりしちゃったし、全然オリコウなんかじゃないもん! 小さいころから、PAPA(父親)に言われて来たとおり、私はやっぱりダメ人間。人間のクズなんだーっ!」

 そして、次に自分の口から出てきたのは、何かある度に、長年、父から言われ続けてきた“文句”でした。
-お前は、デブで醜くて、どうしようもないヤツだ!
-お前は、バカでダラしない、デレスケヤローだ、クソッタレ!
-お前は、役立たずの金食い虫だ!
-お前なんか、生きていたってしょうがない!
-お前なんか、すぐにふてくされるから、いない方がいい!
-お前なんか、生まれて来なければ良かった!
-お前なんか、死んじまえ!
-お前なんか、迷惑しかかけないんだから、出ていけ!!!
-お前なんか、いらない!

そして、その父へ、私がいつも言い返してきた言葉……。
-ウン、そうだね。どうせ、私なんか……。

 「どうせ、私なんか、デブで醜くて、バカで、役立たずで、生きていたって無駄なだけ、役に立たない人間のクズ、死んじゃった方がいい、生まれて来なければ良かった!」

 右手では頭を撫でながら、自分を否定する言葉を吐き続け、繰り返すこと1時間半。気が付くと気持が和らいでいました。“こんなに自己否定する言葉を自分に浴びせかけてしまって、私はどうなってしまうんだろー?”と戸惑いながら始めたことでしたが、いつの間にか、その言葉~ずっと父に言われ続けてきて、自分が一番傷つく文句~に癒されていた私だったのです。とっても不思議ですね…。使い古しのクタクタになったタオルケットにくるまっているような、安らぎと、懐かしいニオイとぬくもりに包まれている…そんな気持になっていました。「まあ、こんなもんでしょー。…チャン!チャン!」なんて、さっさと自分の気持ちに整理をつけて、4時すぎに眠りました。

 「筆談研修会」の中でI先生が,『黒やムラサキ色を使って絵を描くのはよくないと使わせない人がいるけど、そういう色も入れて使って、おもいきり描かせてあげた方がいいんです!』と話されていたことを思い出しました。“黒やムラサキも大事”“自分を否定する気持も、あってもいいんだyo!と認めることも大切…”そういうことなんだナ~って。

 これで、またひとつ、“私のコワイ コワイ ”への対処法が見つかりました。これで、夜中に夫を起こす回数が減るとイイナ。

 私が自分に向かって罵声を浴びせていた間、夫はどうしていたと思いますか? 彼は目も開けず寝ぼけながら、時々、私の声に反応しては、「ウン!そうだ!そーだ!!!」と相槌を打っていました。“普段、私に言えないことを、相槌を打つことで言ったりして…?!”とちょっと思ったけど、ずっと手を握っていてくれたので、やっぱり、私を抱っこしてくれていたんですネ…。ホント にイイヤツです。夫が…大好き。ウフフ…。

 息子はね…。いつも布団から飛び出して寝ているのが、この時は、頭からスッポリ布団をかぶって眠っていました。どんな気持でいたのかなあ…???

 また長い手紙になってしまいました。読んで頂いてありがとうございました。“私の事件簿”でした。それではまた12月の天心でお世話になります!ご自愛ください!

「ひたむきに頑張っていきます」

 すっかりのご無沙汰です。寒くなってきましたが、いかがお過ごしでしょうか?「いつも応援しています」ってメールに書いていただいて嬉しかったです。そして、その言葉を、そのまま受け取れる私に出会えたことも嬉しかったです。

 波風がなかったわけではないけれど、私なりになんとかやりくりできて?いたので、こんなにご無沙汰になってしまいました。それに、なんといっても、娘の登校がずいぶん軌道にのってきたことが大きいです。朝起きるのに少々手間取るけれど、以前のことを思えば、ずいぶんずいぶん楽になりました。文句を言ったりふてくされたりしながら、なかなかいい感じで暮らしています。

 私はと言えば、相変わらずの、自己否定の塊ですが、何にも変わっていないように思ってもみたりしますが、でも、苦しさの中にありながらも、これまでの中で一番息がしやすい状態で居られるようになったようにも感じて、そのことがとても嬉しいです。

 そう、これまで、ずっと、「早く自己肯定できるようにならなければ」って焦っていたようです。でも、この頃、ようやく気付いたのです。「そりゃあ、自己肯定できるようになったらいいけれど、今の私は、ついつい、自己否定に走ってしまう、これが現実。だから、まずは、自己否定してしまう私を認めて、その言い分を聴くことから始めたらいいんだ」と。

 私の中には、まだまだ、たくさんの、思わず、早く出て行ってもらいたいと思ってしまうような否定的な気持ちが渦巻いています。日常生活の色々な場面で、ちょっとしたきっかけで顔を出してきてしまいます。私は、そんな私が居るから、楽にはなれないんだと思っていました。だから、出てくるたびに、「あっ、また出てきた。まだまだ、そんな気持ちがあるんだ。私ってまだまだダメだなあ・・・」と、認めるどころか、言い分を聴くどころか、悪者扱いしてきたことに気付きました。

 直接、その気持ちたちを認めて言い分を聴いていけばいいものを、それらをないがしろにして、『重罪人』に注目しすぎていたのかもしれません。この『重罪人』さえおとなしくなってくれたら、何もかもが解決するかのごとく思い込んでいたかもしれません。だから、機会があると、この『重罪人』と向き合おうとしてきました。でも、どうも、しっくりこない感じがしていました。

 何かにつけて出てくるのには、それなりのわけがあるのだろうから、「まだダメだなあ」なんて思ってしまう必要はない。「そうか、また出てきたね」って感じで認めて言い分を聴くことを根気強く続けていってみたなら、少しずつ、目にはみえないところで私の中の何かが動いていくかもしれないと思ったわけです。そんなことを思って、努めて、そうするようにしてみたら、なんだか、今までに比べて、いい感じがしているので、嬉しくなっています。

 不思議なことに、『重罪人』に、すっぽりと乗っ取られてしまうということも、いくらか少なくなったように感じられます。身近なところから始めれば良かったのですね。

 まだまだ、ハードルは続くけれど、前回伺ったときに比べると、父とのことも、夫とのことも、私自身との付き合い方についても、1~2台のハードルは越えられたかなと思ったりしています。そして、そんな私の手応えに比例して、娘の登校や暮らしぶりに変化が見られるようになり、そのことが、また、嬉しいです。そうは言っても、朝の抵抗が大きくなったり、休んでしまったりということになれば、途端に、慌てふためいてしまうのは間違いありません。それが、私の現実です。そうなったら、その気持ちをできるだけ聴いてみたいと思います。

 これまでを振り返ってみると、本当に本当に大変でした。娘とだって、夫とだって、何度も何度も修羅場?を通ってきました。でも、それがなかったら、やはり、今の気付きは得られなかったのだと思います。これからも、「まだまだ続く」なのでしょう(そろそろ終わりにしたい。早く楽になりたいって思うけれど・・・)。迷って、責めて、怒って、泣いて・・・、また、何かに気付いていけたらいいなあ・・・と思います。ひたむきに頑張っていきます。これが私の持ち味ですから。

 この先子どもと一緒の上京は、これまでのような間隔ではできないかもしれません。でも、私は、まだまだ、せっせと、状況が許す限り、「天心」に通い続けたいと思っています。どうぞ、よろしくお願い致します。